不埒なドクターの誘惑カルテ
 その言葉に一瞬にして顔がほころびそうになった。しかし現実を思い出し、私は作り笑顔を浮かべた。

「ありがとうございます。でも、やめておきます」

「どうして?」

 先生の顔が曇った。私にはそれがすごく意外だった。いつもどんな状況でも笑顔でいた先生の初めて見る顔だったからだ。

 しかしだからと言って、私の答えが変わるわけではない。

「私、彼女のいる人とはふたりっきりで食事にはいきません。それがたとえ深い意味のないものだとしても」

「どういう、意味?」

 不満顔でまだ話を続けようとする先生だったが、ちょうどエレベーターが到着して扉が開いた。

「先生、お疲れ様でした。またご連絡します」

「ちょっと、茉優?」

 まだ食い下がろうとしている先生に、エレベーター内から「乗らないんですか?」と声がかかる。

 私はお辞儀をして、先生の言葉を遮り、そのままエレベーターの扉が閉じるまで顔を上げなかった。

 先生不機嫌そうだったな。……きっと食事に誘って断られたことなんて、きっと一度もなかったに違いない。

 深く考えずに食事くらい行けばいいのかもしれない。けれどその先の自分の気持ちに起こりそうなことくらいはわかる。

 今でさえ彼に惹かれている。まさか自分が最も避けていたタイプの人に対して、こんな気持ちになるなんて思ってもいなかった。

 だからこそ、避けなくてはならない。これ以上彼に思いを寄せてはいけない。

 正しいことをしているはずなのに、なぜだか胸が痛い。私はそれを振り切るように勢いよく踵を返すと、デスクに戻ってたまりにたまっていた書類を片付けた。
 
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