不埒なドクターの誘惑カルテ
 驚いたことに、こんな商業ビルの中に入っているお店なのに、カウンター席しか店内にはなかった。

「こんばんは」

「いらっしゃい」

 カウンターから真っ白い割烹着に身を包んだ男性が、気持ちのよい挨拶をしてくれた。

「ごめん。急に無理言って」

「いえ、どうぞおかけになってください」

 勧められるまま、先生の後に続いて私はカウンターに座った。奥の方に年配のご夫婦が座って食事を楽しんでおられるだけで、他のお客さんは見当たらなかった。

「ほら、服装なんて気にしなくて平気だろ」

 先生が耳元でそう言った。たしかに、こんなにこぢんまりしているなら、他のお客さんのっ気分を害することもない。
 
私は安心して、先生の言葉にうなずいた。

「この店は、昔は築地の奥まった場所にひっそりとあったんだ。けど、このビルのオーナーがいたく気にいってね。直々に口説き落として、ここに出店したってわけ。だから味はお墨付き」

「へぇ。そうなんですか」

 私が感心していると、ベストなタイミングで、おしぼりが差し出された。

「茉優、何か苦手なものある?」

「あ、キノコ類以外なら、何でも」

 私の答えを聞いていた、大将は静かにうなずくと、目の前で調理を始めた。その間にオーダーしていたビールと、ジュンサイとタコの酢の物が目の前に置かれた。

 お互いグラスを掲げて、ビールに口をつける。

 ビルに入る頃には、既に日も落ちていたがまだまだ熱い。エレベーターで上がってくる間に、幾分身体は冷えたけれど、喉を通る冷たいビールがとてもおいしかった。

「この店がカウンターしかないのは、大将のこだわりでね。あつあつの美味いうちに食べてもらいたいからなんだ。だから天ぷらが揚がりはじめたら、しゃべってる暇なんてないんだ。まぁ、そのくらいうまいってことなんだけど」

 まるで待ちきれないのか、大将の手元を覗きこんで話をしている先生は、すごく自然体に感じた。

 それは今だけの話ではなかった。今日一日、先生はいつも職場でみせるようなとってつけたような、軽い感じではない。いつも通り、周りに気を遣っているけれど、向けられた笑顔はとても自然だ。

 私がそう思いたいから、そんなふうに感じるのかもしれないけれど。

 こっそり先生の横顔を覗き込んでいたら、ふいに顔をこっちに向けられ、目が合ってしまう。

「どうかした?」

「いえ。何でもありません」
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