不埒なドクターの誘惑カルテ
 当たり前のように言っているが、接客業でこんなふうに言いきれるのがすごい。自分の信念をもって仕事をしているのが伝わってきた。

「おかげで、素敵な空間ですね。とても居心地がいいです」

「そう言ってもらえるのが、何よりも励みになるよ。ありがとう」

 そう言い残した及川さんは、他のお客様に呼ばれてこの場を離れた。

「な、敷居が高いなんて、取り越し苦労だっただろ?」

「はい。連れて来てくれてありがとうございます」

 先生は口角だけあげて軽く笑うと、ロックグラスを傾けた。

 それから、及川さんとの思い出話を面白可笑しく話をしてくれた。そのどれも懐かしいのか、その表情は優しい。

 そしてその柔らかく、あたたかい表情を浮かべる先生に、私はますます惹かれていった。

 とりとめのない話をしているときに、ふいに先生のスマートフォンが着信を告げる。「ちょっとごめん」と、私に断りを入れて、先生は外に出て行った。

 ひとりになった私に気を遣ってか、及川さんが話しかけてくれる。

「坂下さん、大輔とはいつから?」

「この四月に本社に異動してきて以来、産業医の先生としてお世話になってるんです。右も左もわかっていなかったんですけど、先生のおかげでなんとかやっていけてます」

「そう。あいつも仕事だけは真面目だから」


「〝だけ〟ですか?」

「あぁ、〝だけ〟」

 思わずクスクスと笑ってしまう。こんな形で誰かと先生の話をすることがあるなんて想像もしてなかった。けれど、それもまた楽しい。

「しかし、大輔がここに知り合いを連れてくるなんて、はじめてだよ。ほら、あいつ普段はチャラチャラしてて、いろんな人と連れだって出かけたりもするだろ」

「はい」

 うちの会社の飲み会にもよく参加している。

「だから、ここだけはひとりを楽しむ場所にしていたんだ。だから、君を連れて現れて、正直驚いたよ」

 先生にとって、ここは特別な場所なんだ。そこに連れて来てもらえた。なんだか自分が特別な存在だと誤解してしまいそうだ。

 ドキドキと心臓が無駄な鼓動を刻む。昨日事件に巻き込んでしまった罪滅ぼしにすぎない、勘違いしてはいけないと、言い聞かせるものの、うれしさが胸を渦巻く。

——プルルルル……。

 及川さんと話をしていると、いきなり私の今日かったばかりのスマートフォンが鳴りはじめた。
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