不埒なドクターの誘惑カルテ
「あぁ。なにかあったら、さっきの電話番号に連絡して。まぁ、何もなくてもかけてくれるとうれしいけど」

 そんなこと言われると、期待してしまう。誰にでもいう社交辞令だということ忘れないようにしなければ。

「はい。またおいしいものが食べたくなったら、電話しますね」

 なるべく明るく振舞った。それが功を奏したのか、先生も楽しそうに笑ってくれる。

「じゃあ、またうまい店調べておく」

「よろしくお願いします。今日はありがとうございました」

 私は頭をさげると、踵を返して改札を抜けた。そのまま階段にさしかかる。ふと後ろを振り返ると、先生はポケットに手をいれたまま、まだ私を見ていた。

 振り返った私に気がつくと、手をふってくれる。たったそれだけのことなのに、うれしくて私も手を振り返す。

 しかしいつまでもそこにとどまっているわけにもいかず、私は振っていた手をぐっとにぎって、最後まで先生に後ろ髪を引かれる思いで、ホームに向かって歩き出した。

このとき、私は先生への恋心がどんどん大きくなっていっているのを感じた。




 九月に入っても、まだまだ暑い日が続くなか、私は労働基準監督署に提出する健康診断の報告書を作成していた。まもなく先生が職場巡回のためにこちらにくるので、始まる前にサインだけでももらえるようにと、急いで準備をしていた。

 それに加え、個人票への記入もお願いしなくてはいけない。この時期は先生にお願いする仕事がいつもよりも増える。

「お疲れ様〜。あれ、それって俺に押し付ける書類?」

 背後から手元を覗かれて、私は顔を上げた。それと同時に声をかけてきた束崎先生が、手に取って中身を確認している。

 真剣な表情で精査する様子は、いつものチャラチャラした雰囲気は感じられない。このギャップも先生の魅力のひとつだ。

「これ、サインと印鑑もらえればすぐに提出しますけど」

「いや、持ち帰って一度精査させて、どうせ個人票の記入もあるし」

 予想通りの反応に、思わずクスクスと笑ってしまう。

「何がおかしいんだ? これから俺はこの書類と向き合うと思うと悲鳴をあげそうなのに」

「そんなこと言っていますけど、結局はきちんと仕上げてくれるんですよね?」

「まあね。じゃあ、さっさと今日の巡回も終わらせてしまおう」

「はい」

 私は返事をすると、先月指摘した箇所の改善が行われているかどうか、その確認から始めた。
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