不埒なドクターの誘惑カルテ
 遊びたいとか、たくさんの人と付き合いたいとか、そんな理由でないことは明白だ。彼の表情を見ればわかる。

 そんなふうな思いを抱くほど、彼に何があったのだろうか。

 自分の失恋が決定したこと、それと同時に、先生の思い詰めた表情の両方が私の胸を締め付けた。

「先生・・・・・・」

 しかし先生は、私の話に答えてくれることなく歩きはじめてしまった。まるでこれ以上の会話を拒否しているように感じて、私はそれ以上なにも尋ねることができなかった。



 私ひとり失恋しようと、世界はなんにも変わらない。毎日が同じように流れていくだけだ。

 この恋が実らないとわかっているのに、ますます先生のことばかり考えてしまっている。あの日の先生の表情の裏にある感情を、理解できるはずもないのに、知りたいと思ってしまっていた。

「坂下さんっ? 聞いてますか?」

「あ、うん」

 私の目の前には、不服そうな顔の坂下さんがいる。いけない・・・・・・食事中だった。

 めずらしく坂下さんにランチに誘われて、私は六階にあるイタリアンのお店に来ていた。リーズナブルだけれど、満足のいくランチが食べられるとあって、この界隈にある会社のOLさんたちに大人気の店だ。

 普段はお弁当の山辺さんが、めずらしく誘ってくれたので一緒にランチをすることにしたのだけれど、気がつけば先生のことを考えてしまっていてずっと生返事ばかりを繰り返していた。

 彼女が不満そうな顔をするのも、無理はない。

「なんかいつもと様子が違うから、誘ったのに。大丈夫ですか?」

「あ、うん。ごめんね。なんか色々」

 気まずくなった私は、目の前にある前菜の盛り合わせのお皿にのっている、カプレーゼを突く。

「別にあやまらなくていいですよ。私はなんの迷惑もかけられていませんから」

 山辺さんらしい言葉が返ってきて、思わず笑ってしまった。

 彼女は誤解されやすいタイプだと思う。少しばかり自分に素直だから、わがままに見えることもあるけれど、主張ははっきりとしていてウジウジしていない。

 それにこんなふうに、私の変化にもきちんと気がつくことができる子だ。異動初日に苦手だと思っていた彼女と、こんなふうにランチをとることになるなんて、あのころの私が聞いたらびっくりするだろう。

「あのね、山辺さんはつき合う相手には妥協しないでしょう?」

「もちろん」
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