不埒なドクターの誘惑カルテ
 同じように驚いただろう及川さんを見ると、一瞬戸惑ったように見えたが、すぐになにごともなかったかのように、ふるまった。

「また来たのか?」

 その落着きぶりに、この状況をどうしたらいいのかわからない私は、黙っていることしかできなかった。

「ごまかすなよ、こそこそ人のうわさ話しておいて」

 束崎先生はいつもの軽い感じとは違う、真剣な表情で及川さんを睨みつけていた。彼のまとう怒りの感情が、キリキリと私の胸を締め付ける。

「別に、噂話じゃない、ちょっとした昔話をしていただけだ」

「勝手に俺の話をするな。気分が悪い」

 言いあっているふたりの様子にいたたまれず、私はスツールから立ち上がり、束崎先生に頭を下げた。

「私が、話を聞きたいって言ったんです。及川さんは悪くありませんっ」

 こんなことで許してもらえるとは、思っていなかった。けれど今の私にできることは、こうやって頭を下げることしかできない。

 数秒頭を下げた私が、顔をあげるとそこには今までみたことのないほど冷たい目をした、束崎先生が私を見下ろしていた。

 そしてその表情のまま、口を開く。

「誰が、俺のことを心配してくれって言った? 余計なお世話だ」

「すみません、でも私……」


「茉優には関係のないことだろう、他人に踏み込まれたくないことだって、俺にもあるんだ」

 彼の悲痛な表情が、私の胸に刺さる。

 どうしよう……取り返しのつかないことをしてしまったみたいだ。

 ここで私が泣くわけには、いかない。しかし滲む涙を止めることもできない。

「ほんとうに、失礼なことをしてすみ……ません、で、した」

 掠れて途切れ途切れになりながら、心をこめて謝罪した。しかしそれと同時に、涙があふれてしまう。自分が悪いのに、泣いてしまうなんて、最悪だ。

「失礼します」

 私はバッグを掴むと、出口に早足で歩きだした。

「坂下さんっ!」

 私を呼び留めた声は、束崎先生のものではなく、及川さんのものだった。



 急いでエレベーターに向かう。一刻も早くこの場を去りたくてボタンを連打する。タイミングよくきたエレベーターに飛び乗り、一階のボタンを押した。

 下に向かって動きだしたエレベーター。中には数人の人がいた。

 あ、お会計してないや……。

 でも今さら戻れない。我慢していた涙が、情けなさも手伝って頬を伝う。
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