不埒なドクターの誘惑カルテ
 先生のことを知れば、理解して力になれるかもしれないなんて、おごった考えをした自分が悪い。

 先生は私にそんなことを、望んでなんていないのに。すべて自分の自己満足のためだ。

 そしてその自己満足のために、先生に不快な思いをさせてしまった。

 〝他人〟の私が、踏み込んではいけない場所だったのだ。

 目の前が涙でゆがむ。涙を拭おうとするたびに先生の冷たい目が思い浮んでまた涙を誘う。

 ぼたぼたと床にシミを作るころには、立っていられなくなって私はエレベーターの中でしゃがみこみ、人目もはばからずにしゃくりあげて泣いた。



 それから一カ月間。先生に連絡できずに時間だけが経っていった。

 あの日の翌日、最初こそ泣きはらした顔に驚いた山辺さんが、心配してくれていたけれど、それが何日か続くとそっとしておいてくれるようになった。

 さすがに、泣き暮らすことはしてないけれど、ふと思い出すとやはり胸が痛む。それが夜ベッドに入ったときだと、長い時間寝付けずにいることもよくあった。

 幸い——と言いていいのかどうかわからないが、その月の社内巡回の日は私が出張で不在だったため、先生と顔を合わすことはなかった。

 もしいつものように、一緒に巡回をしていれば、きちんと謝罪をするチャンスがあったかもしれない。けれど、私はまだ彼と顔を合わせる勇気がなかった。

 拒絶されるのは、恋が実らないとわかったときよりもつらいからだ。

 巡回を一緒にしなければ、先生とふたりっきりになることはない。それどころか顔を合わせることもほとんどなかった。

 このまま時間だけが過ぎていくと、謝るタイミングも難しくなる。

 そうわかっているけれど、弱虫な私は何も行動できずにいた。

 そんなある日、私は山辺さんに無理矢理連れられて、部署間の交流会という飲み会に参加していた。

 本当ならばそんな気分ではないのだけれど、毎年数名は総務からも参加が義務付けられるらしく、部長からもお願いされてしまい、私は渋々参加をした。

 会社近くの居酒屋の座敷を借り切って、交流会は行われていた。私は山辺さんと入口近くの席に座り、注文を聞いたりお皿をさげたりと忙しくしていた。

「もう……これじゃ、この店のバイトみたいじゃない」

 山辺さんが呟くのも無理はない。

「だんだん追加のオーダーも落ち着いてくるよ。ほら、私達も食べよう」
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