不埒なドクターの誘惑カルテ
「そうですね。せっかくだから元はとらないと」

 お箸を持った山辺さんの切り替えの早さに、思わず笑ってしまった。こうやって今までと変わらない日常を送ることは大切だ。

 いつまでも私ひとり、引きずっているわけにはいかない。

 食欲がないものの、目の前のコップに注がれた、ぬるくなったビールを口にして、突き出しの枝豆を食べた。

 それからの私は、話し掛けられれば答える程度ですみっこで大人しく時間をすごしていた。

 そのせいか、盗み聞ぎするつもりはなくても、まわりの人たちの会話がよく耳に届いた。



 そのなかに聞き捨てらならない人の話が出てくる。

 話の主は、企画部のメンバーだ。

「おい、あのうさん臭い産業医も、呼んだのかよ」

「おいおい。相手はお医者さまだぞ」

 揶揄するような言い方に、カチンときてしまう。自分にそんな資格はないとわかっているけれど、いい気がしないのだから仕方ない。

 しかしそんな私の気持ちを知らずに、彼らはお酒が入ったせいか大きな声で話し続けた。

「いいよな〜、医者ってだけで、ここらへん歩き回って飲み会の約束こぎつけるだけで、俺の給料の何倍も金をもらってるんだろ」

「マジでぼったくりだよな」

 下品にげらげらと笑う、その社員たちに我慢できず、私は思わず声をあげてしまった。

「束崎先生は、適当な仕事はなさっていません。訂正してください」

「あ? なんだよいきなり」

 話をしていた社員が揃ってこちらを、睨んだ。しかし、私は怯むこと無く相手をまっすぐ見る。

「束崎先生は、きちんとしたお仕事をされています。なにも知らないのに、悪く言うのはやめてください」

「ちょっと、坂下さん。どうしたんですか?」

 引かない私を心配した山辺さんが、止めに入ろうとする。いつもの私なら、こんなふうに人前で自分の意見をいうことなんてしないと思う。けれど今回は我慢ができなかった。

 先生がどんな思いで、産業医の道を選んだのか。そして今もどんな思いで、この仕事に向き合っているのか、事情もわからない人に悪く言ってほしくない。

「は? 悪くなんて言ってないだろ。だいたいあんなチャラチャラしたやつ——」

「呼んだ?」

 襖が開いて、ひとりの男性が入ってきた。座敷に緊張が走り静かになった。

「なんか、俺の話してるのが聞こえてさ。やっぱり、こうもイケメンだと噂されても仕方がないんだけどね」
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