【B】眠らない街で愛を囁いて
境内に踏み込んで御本堂の方へと歩いていく。
「こんにちは。お参りですか?」
「はいっ。
お邪魔させて頂いて宜しいですか?」
「どうぞ、こちらへ」
作務衣姿の住職らしき人が別の入口へと誘導してくれると、
絨毯が敷かれた渡り廊下を歩いている途中に『とら』と書かれた大きな犬小屋が見えた。
「犬を飼っていらっしゃるんですね」
「えぇ、娘が小さい時に欲しがりましてね。
ゴールデンレトリバーの『とら』といいます」
『とら』
その名前を聞いて俺は叶夢が寝ぼけて抱き着いてきた日のことを思い出す。
「さぁ、どうぞ。御本尊【ごほんぞん】さまです」
住職に案内された場所には、大きな菩薩像が安置されていて、
細やかな金の細工が施されていた。
両手をあわせてゆっくりとお参りする。
「有難うございました。
折り入って住職にお尋ねしたいのですが、
私は東京から参りました、泉原と申します」
そういって、ビジネス用の名刺をケースから取り出すと住職へと手渡す。
「泉原…さん……。
あぁ、叶夢でしょうか?」
住職から出てきた最愛の彼女の名前と共に名刺を渡しただけで、
俺の存在を知っていたかのように切り返されて驚きを隠せなかった。
「叶夢さんは?」
「娘は、とらと散歩に行っています。
こちらではなんですので、どうぞ母屋の方へお越しください。
母と家内がお会いしたいと思いますので」
言われるままに、本堂を後にして先ほどの渡り廊下を移動すると逆側の廊下へと歩いていく。
すると奥へと続く扉が見えて来た。
「散らかっていますがどうぞ」
その場所から眺める景色は、畑に沢山出来た野菜。
「東京の方には珍しいですか?」
「……はい……。
野菜は調理されて出てくるものなので、
こうやって育てているところを見るのは初めてです」
そんなことを言いながら、通された部屋へとお邪魔させてもらう。
座布団を用意してくれて「お寛ぎください」っと言われるものの、
これから重要な話題が待ってる。
俺はよそ者で、今から叶夢と結婚を前提に付き合いたいとお願いしなければいけない。
結婚は大学を出てからにしても、今まで叶夢が借りていたアパートは物騒すぎる。
俺の部屋へと来てもらって同棲を始めたい。
そんなことを伝えたい、大仕事が待っている。
緊張のまま、畳に直接座って叶夢の家族が入ってくるのを待つ。