偽りの婚約者に溺愛されています
「少し時間をくれないか。話があるんだけど」
終業時間になり、部署を出た夢子を廊下で呼び止めた。
「もう話なんてありません。失礼します。お疲れ様でした」
素っ気なくそう言うと、夢子は目も合わせずに立ち去ろうとする。
その腕をさっと掴み、耳に口を近づけて小声で言う。
「ここで話すか?誰に聞かれるか分からないけど。また、格好の噂になるぞ。俺はおそらく、見た感じよりも冷静じゃないから。声が大きくなるかも」
彼女がガバッと振り返ると、至近距離で目が合う。
「わ、分かりました。聞きます」
彼女の返事を聞いてにっこりと笑う。
どうか逃げたりせずに、最後まで聞いてほしい。
「そうか。よかった」
それだけ言って歩き出す。
夢子も俺のあとについて、歩き出した。
そのまま、非常階段の踊り場に出ると、夕闇が辺りを包み始めていた。
「うわ。いい景色だ。あの日の夜景を思い出す」
ここは十階。ビルの隙間を通り抜ける風で乱れた髪を、かき上げながら彼女を振り返った。