偽りの婚約者に溺愛されています
『あ。まさか、駅前で』
ふと思い出した。
智也さんと外回りの途中で、彼が話しかけてきたときのことを。
あの日は、智也さんと文具店のディスプレイを視察したあと、その配列について意見が分かれた。その帰りに大声で言い合っていると、彼が現れたのだ。
言い合いをやめ一時休戦となり、出会った彼と短い挨拶とほんのわずかな会話を交わした。智也さんの友人かなにかだと思い、適当に話を合わせた。
そのときのことは、一瞬だったので、まったく頭から消えていた。
『俺は、綺麗な人だなって思ったから印象に残っていたのに。君はまさか、本当に俺のことを忘れていたの』
『すみません。弟さんだなんて、聞いてなかったので。あのときは松雪課長に対して、悔しい気持ちしかなかったので。私の意見を真っ向から否定されたから、面白くなかったんです』
綺麗な人だなんて、女性の褒め方まで彼と同じだ。
不思議な気分になる。
『頼むよ。当日、会うだけでいい。父と叔母を納得させたいんだ。俺も、お見合いをする気はあるのだと。すべてが終われば、君から断ってくれていいから。君に彼氏がいることを笹岡社長から聞いたけど、この話は誰にも言わない。内緒にするから、彼氏にもばれないよ』
いきなりバタッとテーブルに頭をつけて、彼が言う。
この人も、少し前の私と同じ気持ちなのだろう。
後継者という縛りが、自由であることを許さない。
『いいですよ。でも、彼を父に紹介したあとなんです。父が納得しますかね。うまくいく気がしないわ』
その偽りの彼が、お兄さんであることは言わなくてもいいだろうか。
考えていると、彼がさらに提案してきた。