恋愛預金満期日 ~夏樹名義~
「実は…… あなたが家へ来た時の記憶が僕には無いんです」


「えっ」
 私には意味が解らなかった。


「あまりに突然で、玄関に立っていたあなたの姿があまりに綺麗で…… なんていうか、僕には衝撃過ぎたんですかね…… あなたを見た瞬間、放心状態になってしまって、まあ、気絶に近いですね…… 母親の怒鳴る声で、やっと我に返ったんです。もう、必至で追い掛けましたよ。だから、あなたが悲しむような事では無いんです。あなたが思っているより、ずぅーっと僕はあなたが好きなんです。あなたが突然現れたら、僕はこんな始末です」


「え―。覚えてないんですか? 私、てっきり常識が無いと思われているとばかり…… ちょっとほっとしたかな……」

 私はなんて勘違いをしていたのだろう? 
 彼は本当に私を好きでいてくれたんだ。


 ただ、ただ私を受け入れようとしていてくれたんだ。そう思うと自然に笑みがこぼれてしった。



「それなら良かった……。あの…… 今更なんですが、聞きにくい事を聞いてもいいですか?」
 彼が申し訳なさそうに下を向いた。


「ええ」


「誰か他に好きな人とか居るんですか?」


 そうだよね、彼だってずっと苦しかったんだ……


「山下課長の事ですよね?」

「まあ……」
 彼は少し戸惑ったように言った。


「彼とは仕事以外では会っていません。軽い人ですから、今でも普通に話しかけてきますけどね。でも、私も今はなんとも思って居ません…… あの時は本当に悲しくて、辛かったけど、思いっきり泣いて、側で頭を撫でてもらっているうちに悲しい事が溶けていくみたで…… また、勝手な事言っていますね…… ごめんない……」


 もっと上手く言葉にしたいのに、自分の勝手さが出てしまう。


「いいえ、そんな風に思ってもらえただけで、僕は十分です。ありがとう……」


 なんでこんなに、私なんかを……


「そんな、私の方が助けてもらってばかりで……」

「助けられたのは僕の方ですから……」


 彼は大きく深呼吸をして、私に真っ直ぐ目を向けた。

「それで、いつオーストラリアへ?」

「来月です」


「そうですか…… ぼくも今週末東京へ引っ越します。これで、お別れですね。もう、お会いする事もありません…… お元気で……」
 彼は少し涙を目に溜めて言った。


「ええ……」


 そうか? そうだよね…… これでお別れなんだ。
 仕方ない、自分で決めた事。


 結局待っていて欲しいなんて、私には言えなかった……
 いや、言えるはずが無かった……


 私が唇をぐっと噛みしめた時だった、マスターが私達のテーブルに、サラダとパスタを置いた。
< 51 / 72 >

この作品をシェア

pagetop