俺様社長と極甘オフィス
 平仮名入力ということから、前一氏に関わりのある人の名前や、好きなものを推測していた。パスワードにするときの基本だ。

 前一氏自身の名前、息子である正一氏や亡くなった奥様の名前、もちろん社長の名前も入力した。尊敬していると謳っていた人物、恩師の名前、でもどれも違った。

「自分だけが知っている人名や単語なら、わざわざ五十二階にたどり着かなければ、なんて条件を残さないはずです。考えたら分かるものか、もっと一般的なものなのかもしれません。名前からは少し離れて別の線で探ってみましょう」

 コース料理は申し分なく美味しいのだけれど、話している内容はどうも重く、空気も料理にも似つかわしくない。しかし、今はそんなこと言ってられないのだ。

「絶対に俺の名前だと思ったんだけどなぁ」

 頭を垂れて社長が呟いた。その発言は何度も聞いているので私は苦笑するしかない。五十二階は前一氏の完全なるプライベート空間で息子の正一氏や奥様さえ足を踏み入れたことはないという。

 いや、正確には踏み入れるのを許してもらえなかった。そんな中、社長は身内では唯一、五十二階に訪れたことがある。

「小学校低学年の頃かな。親父が離婚して、事情がよく分からないまま母と弟はいなくなった。幼いながら、父を責めるのはなんだか違う気がしてできなかったけれど、あの頃の俺はどうも不安定だった。
普通に学校に行って、普通に宿題して、遊んで勉強して。でも、それでも心の中にどこかぽっかり穴が空いたような気分だったよ。そんなとき、じいさんが俺を連れ出してこのビルの五十二階へ連れて行ってくれたんだ」
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