プラス1℃の恋人
 荷物を置き、遅刻の届け出をするために、青羽は事務の桃子のところへ向かった。

「青羽ちゃん、熱中症で倒れたんだって?」

 夕べの出来事は、桃子の耳にもちゃんと入っていたらしい。

「ちょっとね。追加の仕事を頼まれたんだけど、間に合わなくて」

「そういうことかあ。千坂主任が、ものすごく心配していたよ」


 桃子の話によると、オフィスの床にあったサーキュレーターは、千坂がポケットマネーで買ってきたものだそうだ。

「エアコンの設定温度の規定はあるけど、ほかの機材を置いちゃだめって決まりはないから。千坂主任、あと1台あればいいなって言ってたから、そこは経費で落とせるように頑張る」

 頼もしい事務の言葉である。


 今回の席替えも、千坂の提案だったそうだ。

 以前青羽は、オフィスの責任者である部長に、席替えを申し出たことがあった。
 けれど「みんな同じ条件なんだから我慢しろ」と一蹴された。

 そのときはそのときで納得したのだけれど、直に部下の仕事を見ている千坂の目には、やはり問題があるように映ったらしい。

 でも昨日の残業のときは、いつもと変わらなかったのに。


 席につく前に、千坂のところへ報告とお礼に行く。

「遅れてすみませんでした。なんだか調子が悪くて、病院に行ってきました。熱中症と貧血だそうです」

 すると千坂は、真剣な表情で青羽の顔をのぞき込んだ。

「昨日は遅くまで残業させて悪かったな。ほかには体に異常はないか? 具合が悪くなったら、すぐに報告しろよ」

 いつもはどこか飄々としているのに、千坂の目は真剣そのもので、青羽はドキリとした。
 初めて聞くような、優しく労わるような声。

 ――いや、ゆうべもたしか、こんな千坂の声を聞いたような気がする。
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