プラス1℃の恋人
 いきなり顔がほてってくる。
 千坂は「顔が赤いぞ。本当に大丈夫か」と青羽の顔を覗きこんだ。

 ――顔が近い! 近すぎる!

 千坂なんか、絶対に恋愛対象に入るタイプではないのに。

 でもよく見たら、そんなに嫌いな顔じゃない。
 むしろ体つきなんか、そのへんの若い男よりもよっぽど逞しくて――。

 ――な、な、な、なによ、このときめき! これも鉄剤の副作用!?

 青羽は「大丈夫です」と言いながらぺこんと頭を下げ、そそくさと自分の席に戻った。


 気持ちを落ち着かせ、あらためて周りを見渡すと、オフィス内はいろいろと工夫されていた。

 冷え性のためにひざ掛けを常備していた女子社員は、窓際の席に移っている。
 寒すぎたり暑すぎたりする席には、外回りの多い営業社員が座っていた。
 これだけでも、職場環境はぐっとよくなる。

 青羽は、離れた席に座っている千坂のほうに顔を向けた。
 すると、こっちを見ていた千坂と目が合ってしまった。

 またもやドキドキと暴れ出す心臓。

 ――なんでこっち見てるの!?

 青羽はどうしていいかわからず、手元の書類に目を向けた。
 顔をあげると千坂と目が合ってしまいそうで、不自然に下ばかりを向いてしまう。

 おかしいのは、千坂よりも自分のほうかもしれない。
 いままで眼中になかった千坂を、こんなふうに意識してしまうなんて。

 熱中症のせいで、頭の回路がどこか壊れてしまったのだろうか。


 気を取りなおして、昨夜翻訳した英文を改めて見ると、あまりのひどさに愕然とした。

 ――千坂主任、これでOK出したの?

 いや、気持ちと体調をリセットして、もう一度チャレンジしてみろということだったのだと思う。

 涼しい場所で頭がスッキリしたとたん、本来の仕事能力が目覚める。
 須田青羽、本気モードに入ります!

 赤ペンを構え、青羽は最初から翻訳をやりなおすことにした。


 できあがった英文を、千坂のデスクに持って行く。

「昨日OKもらいましたけど、やっぱりあれじゃだめだと思って書き直しました。チェックお願いします」

 千坂は「おまえは頑張り屋だな」と書類を受け取った。

 自分の席に戻り、千坂の様子をこっそりとうかがう。
 文章を読み進めるうちに、千坂の顔がみるみる笑顔になっていくのがわかった。

 よかった。今度は大丈夫そうだ。


 チェックし終えた原稿を、千坂が青羽のデスクに持ってくる。

「新規の依頼も来てるんだが、頼んで大丈夫か? ああ、でもな……」

 昨夜のことをまだ気にしているのだろう。
 青羽は千坂に向かってガッツポーズをしてみせた。

「やらせてください! 前の席は暑すぎてダメでしたけど、今度は集中できそうなので、就業時間内に終わらせます!」

「そうか。なら任せる。でも、くれぐれも無理はするなよ」

「はい!」

 千坂の信用を取り戻せたのが、なによりも嬉しかった。

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