プラス1℃の恋人
 宣言どおり、青羽はその日のうちに新規の翻訳を完成させた。
 少しだけ就業時間をはみ出してしまったけれど、遅刻をしたぶん残業したと思えばプラスマイナス・ゼロだ。

 あとは千坂に目を通してもらい、OKが出れば、クラフトビールのポータルサイトに掲載することになる。


 終業時間が終わり、オフィスの空調が省電力モードになって数十分。

「とはいえ、エアコンが切れるとやっぱりきついな……」

 少しのぼせてしまった。
 あとは家に帰るだけなのだが、陽が落ちても熱の残る外の戦場へ出るまえに、涼しいところで英気を養いたい。

 青羽は秘密の隠れ家へと逃げ込んだ。
 隠れ家というのは、廊下の突きあたりにある、ビールの保管庫のことだ。

 厚いコンクリートの壁に囲まれた窓のない倉庫には、各地から集めた地ビールのサンプルが保管されてある。
 品質管理のために、ここだけはいつでも温度管理がされていた。

 そのうえ、工夫を凝らしたパッケージを見ているだけで楽しい気持ちにもなれる。

 青羽はときどき、商品管理と称して保管庫に逃げ込んでは、体の熱をクールダウンさせていた。

「生き返る……」

 冷たいスチールの棚板に、ぺたりと頬を押し付ける。
 顔や手足を冷やしながら、青羽は今日の千坂の様子を思い返していた。

 青羽が熱中症を起こしたことへの責任感を差し引いても、今日の千坂は様子が変だった。

 遅れて出社した青羽は、涼しくなった席で、今までの失態を取り戻すかのように集中して仕事をこなした。
 でも、ふと顔をあげると、いつもこっちを見ている千坂と目が合うのだ。

 ドキッとして、青羽は慌ててディスプレイに視線を移す。

 これじゃまるで、秘密の社内恋愛をしている恋人同士みたいではないか。
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