プラス1℃の恋人
 少しずつ頭がはっきりしてくる。

 ここはどこなのだろう。
 そう思えるほどに、脳みそまで酸素が回ってきた。

 天井にあるオレンジ色のダウンライトは控えめな明るさで、あたりは薄ぼんやりしている。
 部屋のなかの空気はあたたかく湿っていて、閉じられた空間特有のこもったにおいがした。
 背中がやたらと痛いのは、ベンチに寝ているせいらしい。

 ゆっくりと首を動かしてあたりを確認する。

 黒と木目を基調とした部屋のなかには、たくさんのロッカーと、5つほどの仕切られた個室が並んでいた。

 光沢のあるグレーのカーテンが、天井に固定されたファンの風にあおられてふわりと揺らぐ。
 その奥から聞こえてくる、軽快なシャワー音。

 以前行ったジムのシャワー室に似ているな。

 青羽の働くオフィスビルの5階に、フィットネスジムがある。
 青羽も一度、友人の藤谷紫音《ふじたにしおん》に誘われて行ったことがあった。

 セレブ御用達のフィットネスジムは、どこもかしこも高級感にあふれていた。

 内装はすべて黒と木目で統一され、アメニティやタオルも専用のものだ。
 通ってくる人間も、まぶしいくらいキラキラしていた。

 会員はこのオフィスビル、B.C.square TOKYOのアッパーフロアで働く人たちが中心らしい。
 彼らの平均年収は4000万だと紫音から聞いたことがあったが、そのとき青羽は「うそだー!」と笑った。

 が、実際にセレブの世界に一歩足を踏み入れてみると、けた外れの平均年収も、あながち嘘ではないとわかる。

 フィットネスジムでさえも社交の場らしく、ランニングマシーンで並んで走る人たちのあいだでは、難しいビジネス用語が飛び交っていた。

 なかには、英語での会話が義務付けられている会社もあり、大学時代に英語を専攻していた青羽でさえも聞きほれるくらい流暢な英語で話す人たちもいる。

「こういうところに通ったら、玉の輿にのれるかしら」

 あのときは、自分もセレブの仲間入りをしたような気分になったっけ。
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