プラス1℃の恋人
 千坂が予約の名前を告げると、黒髪をきっちり七三に分けたノンフレーム眼鏡のホールスタッフが、「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」とふたりを窓際の席へと案内した。

 窓際の席。
 やっぱりそうなの?

 そういえば、このビルの42階から51階まではホテルになっている。

 もしかしたら、今日、そういう関係になってしまう?


 53階から見る夜景は、まばゆい光の絨毯みたいだった。
 青羽は生まれたときからずっと東京に住んでいるけれど、こんなにきれいな世界があることを知らなかった。

「遠慮しないで、好きなものを頼め」

 ――と言われても、メニューに値段が書かれていないんですけど。

 おそらく相当な値段だろうと予想がつく。

 千坂主任のほうから誘ってくれたのだから、ご馳走してくれる気なのだろうけれど、遠慮なく好きなものをオーダーできるほど図々しくはない。

 Aコース、Bコース……どれがいちばん無難なのだろう。

 すると千坂が、「この、『シェフのきまぐれコース』にしてみるか」と青羽のぶんもオーダーしてくれた。

 メニューのいちばん下に書かれているそれは、特別な日のごちそうみたいに金色の箔押しがしてあった。

 千坂はワインリストを見ながら、ソムリエと話をしている。

 大人の男性の色香というのだろうか。自信にあふれた堂々とした態度は、セレブが集うレストランにいても、まったく遜色ない。

 身につけているスーツも、ふだんオフィスで着ているものよりも、高級そうに見えた。
 いつもは帰り際になると、うっすら無精ひげまで生えているのに、なんだか今日はさっぱりしている。

「今日の主任、会社のときとは違って見えます」

 ドキドキしながらそう言うと、千坂は少し照れたように笑った。

「よく気が付いたな。これからちょっと、勝負に出なきゃならないことがあって。気合を入れてきた」

 勝負に出なきゃならないこと?
 53階にあるレストランの窓際の席は、プロポーズの定番。

 これはやっぱり――
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