プラス1℃の恋人
 千坂はもたれていた椅子から背中を離し、両方の腕をテーブルの上に載せた。

 来るか。

 青羽は表情を引き締め、身構えた。
 だが、千坂の口から出たのは、予想していたのとは違う言葉だった。

「須田が熱中症で倒れたときな、自分で自分を殴りたくなった。あんなになるまで部下の変調に気づけなかったなんて、責任者失格だ。まさか建物のなかでも熱中症になると思ってなくて」

 千坂はそのことを、ずっと気に病んでいたのか。

 そういえば、フロアの保管庫で涼んでいたとき、熱中症で倒れたと勘違いした千坂が、会社の人間が見ている前で青羽を連れ去ったんだっけ。

 あのあとずいぶん会社のなかで騒がれて、「仕事がやりづらい!」とずいぶんぼやいていたけれど。

「心配ご無用ですっ!」

 手をぶんぶんと振りながら青羽が勢いよく答えると、千坂は目をまんまるくした。
 そして、「そうやって元気なのが、いちばん須田らしいな」と笑った。

 しまった。
 せっかくのいい雰囲気が台無しだ。
 もう少し空気を読んで、しおらしくしているべきだった。

 青羽は膝の上に両手を乗せ、背筋を伸ばしてまっすぐに千坂に向き直る。

「体調を悪くしたのも、残業をするはめになったのも、もともとは私自身の責任です。なのに、千坂主任はものすごく気遣ってくれて……部下を大事にしてくれているとわかって、私、嬉しかったです」

 千坂は、ほっとしたように表情を緩めた。
 そして、残りのシャンパンを一気に飲み干した。

「俺には10歳下の妹がいるんだ。ちょうどおまえと同じ年だな。看護師をやっているんだが、おまえのことが気になって、相談してみたんだ。そしたら、熱中症をなめるなってえらい怒鳴られた。脱水で死んだり、後遺症が残ったりすることもあるらしい」

 青羽に夏バテ予防のレシピをメールで送ってくれたのも、看護師をしているという妹さんからのアドバイスがあったかららしい。
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