プラス1℃の恋人
「主任、ずっと聞きたいことがあって」

「ん? なんだ?」

「一緒に残業した日に、ふたりのあいだであったことです」

 すると千坂は、一瞬ぎくっとした表情を見せ、目を泳がせた。
 だがすぐに、にっこり笑って、なにごともないように聞き返してきた。

「ああ、あの日のことか。それがどうかしたか?」

「どうして私は下着姿で男子更衣室にいたんでしょうか」

 ストレートに聞いてみる。
 すると千坂は、「いや、その……あれはだな……」とあからさまに動揺しはじめた。

 怪しい。これはやはり、千坂が犯人だな。
 青羽は確信した。

「不可抗力だったんだよ。途中までは、おまえが勝手に脱いだんだし」

 節電モードに入ったオフィスは千坂と青羽しかいなかったので、思い切って上着を脱ぎ、涼しい格好をすることにした。
 それは青羽も覚えている。

「確かにブラウスとストッキングは自分で脱いだ記憶があります。でもその先のことを全然思い出せなくて」

 千坂は気まずそうに視線をそらす。

「忘れてるなら、思い出さないほうがいいぞ」

「そういうわけにはいきません。記憶がないなんて、怖いじゃないですか」

「まぁ確かにそうだが、聞いたら絶対におまえは後悔する」

「大丈夫です。絶対に後悔なんてしません」

「そうか? じゃ、言うぞ」

「はい」

 心の準備はできている。
 もしふたりのあいだになにがおきていても、絶対に後悔しない。

「あの日、商品説明の英訳をおまえに頼んだだろう? おまえは熱中症でふらふらになりながらも、泣きごとを言わずに頑張った。まあ、内容はひどいものだったが」

「すみません……」

 まあいい、と千坂は少しだけ上司の顔に戻る。

「いつものおまえらしからぬミスだな、と思ったが、よく見たら体調も悪そうだ。仕上げは俺がやることにして、おまえのことは帰らせることにした。そしたら……」

 いきなり抱きつかれたんだよ。

 千坂は困ったようにそう言った。
< 46 / 98 >

この作品をシェア

pagetop