プラス1℃の恋人
 ところがそのとき異変が起きた。

 床に組み敷いていた須田がジタバタともがき、千坂の巨体をどんと突き飛ばしたのだ。
 慌てて体をどかす千坂には目もくれず、須田は体を折り曲げて口に手をあてている。

「気持ち悪い……」
「……はぁ?」

 間抜けな声が出た。

 そんなに汗臭かっただろうかと、我に返って自分のにおいを嗅いでみた。
 確かに汗臭いことは汗臭いが、突き飛ばすほどだろうか。

 けれど、目の前で真っ青な顔をしている部下を見て、「これはシャレにならんだろ」と千坂は冷静さを取り戻す。

「大丈夫か?」
「気持ち悪い」
「え?」
「吐く」
「ちょっと待てぇぇ!」

 千坂は須田を抱えてオフィスを飛び出した。



「なんで俺がこんなことを……」

 ロッカーのなかにあったバスタオルを、ベンチで横になっている須田にかけてやる。

 額に手のひらを当ててみると、さっきよりも熱は引いたようだ。
 顔色もだいぶいい。


 結局給湯室まで間に合わず、須田は自分の服の上に嘔吐した。

 苦しそうに体を震わせる須田の姿を思い出し、千坂は自分の行動を深く反省する。

 さっきの暴挙だけではない。
 須田ならばやってくれるだろうと、普段以上の仕事を割り当てたこと。
 うつろな目をしていたことに気が付きながらも、そのままにしていたこと。

 吐き出したのは胃液だけだった。
 こいつはろくに飯も食わず、あの熱帯化したオフィスで残業していたのだ。

 具合が悪いなら悪いと、言ってくれたらよかったのに。
 ……いや、無理をさせたのは自分か。
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