プラス1℃の恋人
「クマさん……」

 なにか夢でも見ているのだろう。
 くすくすと笑いながら、須田が寝言をつぶやく。

 なーにがクマさんだ。幸せそうな顔をしやがって。


 若い社員が自分のことを「クマさん」と呼んでいることは知っていた。
 だが、じつを言うと、そのあだ名はこのでかい図体が由来なわけではない。

 自分の本名は、千坂拓亮《ちさかたくま》だ。
 それで同期の連中が、下の名前にちなんで「クマさん」と呼びはじめた。

 ところが最近では『拓亮』の読み方がわからない連中がほとんどで、見た目から〝クマ〟とあだ名がつけられたのだという説が定着している。


 ――たぶんこいつも、俺の下の名前なんか知らないんだろうな。

 なぜだか少し、がっかりしている自分がいる。


 すやすやと寝息を立てて眠っている須田の顔を見て、ようやくいつもの千坂に戻ることができた。

 服が汚れたままではかわいそうだと、更衣室のシャワー室で洗濯してやることにした。

 なるべく意識しないように、バスタオルの下から慎重にタンクトップとキュロットスカートを脱がす。
 緊張で、滝のように汗が出た。


 部下の無邪気な寝顔を見つめながら、千坂はささやいた。

「さっきのことは忘れろよ。上司の命令だ」
「はい、わかりました」

 目を閉じたまま、須田が返事をした。
 千坂はぎょっとする。

 本当は起きているのか。
 そんなふうに焦ったが、また規則正しい寝息が聞こえてきた。

 ――勘弁してくれ。

 千坂はシャワー室で洗濯をしながら、「どうか須田が、記憶をなくしてくれますように」と心の底から願わずにはいられなかった。

         おしまい
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