愛し君に花の名を捧ぐ
 房《へや》へと連れ戻され、リーリュアは剛燕に勧められるがまま元の椅子へと腰を下ろす。キールは不機嫌を丸出しにして壁に背を預けて立ち、胡乱げに剛燕を睨み付けていた。

 卓上には颯璉が用意した茶が供され、リーリュアの侍女が淹れたものとは比べるべくもないふくよかな香りを放つ。ひと口含めば、まろやかな甘みが鬱々と晴れない気持ちを多少は和らげてくれた。

「それで、鬼の奥女官長殿から逃亡を企てようとしたわけですか」

 呆れつつも面白がっているのが、剛燕の声音には現れている。
 リーリュアが謁見からの顛末を話しているうちに、剛燕がひと息で飲み干してしまった茶杯を交換するため傍らにいた方颯璉《ほう そうれん》は、己に対する彼の暴言にも手元を狂わせることはない。 

「逃げようとしたわけではないわ。陛下に直接お会いして、ちゃんとお話をしたかっただけよ」

 面会ひとつとっても自国との勝手の違いに頬を膨らませ抗議すると、剛燕は苦笑いで立派なヒゲに隠れた頬を掻いた。

「まあ、たしかに宮中は面倒なことばかりですからね。オレだって、仕事でなければ、できるだけ近寄りたくない場所ですよ」

 彼は禁軍の将としてひとつの軍隊を任されているという。それを聞いたキールの機嫌がますます斜めに傾いていく。

「わたくしがアリーシャ姉さまじゃないから、苑輝様はお嫌なのかしら」

 自分では皇后として相応しくないと思われたのかもしれない。
 苑輝が長姉との縁談を一度は承諾していたことを思い出し、懸念を手の中の茶杯に零す。母や教育係の口癖はいつも「淑やかな姉たちを見習いなさい」だった。

「姉君? それはないと思いますが」

 しかしそれはあっさりと否定される。リーリュアが「どうして?」と根拠を問えば、剛燕は少し躊躇った後に苦々しい面持ちで答えた。

「実を申し上げますと、あのとき姉姫様に出した縁談のお相手は、望界帝――つまり、苑輝様の父君だったんです」

 リーリュアは息を呑み、剛燕以上に苦い顔になった。
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