愛し君に花の名を捧ぐ
◇ ◇ ◇

 筆を置き、上げた琥苑輝の目は侍従が告げた来訪者以外の人物を見留めた。

「陛下には、拝謁のお許しをいただき……」

「これはどういうことだ、剛燕」

 形ばかりの口上を遮り、目通りを許した覚えのない者へ非難の視線を向ける。拝跪し頭を垂れているが、その髪の色は間違いようがない。

「西の姫君。帰郷の挨拶にいらっしゃったのか」

 ふたりに立ち上がるよう促すと、リーリュアはゆっくりと面を苑輝に向ける。その顔に苑輝は息を呑んだ。薄化粧を施し淡い色合いで揃えた襦裙をまとう異国の姫が、天界から舞い降りた仙女に見えたのである。

「こうでもしないと、陛下はお逃げになるのでは?」

「……いや。まさかおまえではあるまいし。きちんと手順を踏まれれば、国に戻られる前に会談の場を設けたものを」

 あくまで国使として丁重に扱う。それ以上でも以下でもないと言外に匂わせたが、意図的に無視をしたのか、彼女は大きな目をさらに見開き苑輝を真正面から見え据える。

「アザロフには戻りません」

 ふと、自分に向けられている翠の瞳からまた大粒の涙が落ちるのではという心配に囚われたが、苑輝のそれは杞憂に終わった。リーリュアの唇が、柔らかな弧を描いたのである。

「この国に嫁いできたのです。もうここがわたくしの“国”です」

「約条のことなら気にしなくても大丈夫だ。その旨はきちんと文書にしてお父上にお知らせする。昔とは違う。あなたが犠牲になりこの国に残る必要などない」

 苑輝は、アザロフの城に滞在したほんの僅かな期間を思い出す。国王一家は、攻め入った敵国の将である自分にまで親切にしてくれた。あのような家族が、遠く離れた葆に愛娘を送り出した心境を推量すれば、一日でも早くリーリュアを帰さなければという思いに駆られる。
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