愛し君に花の名を捧ぐ
 数歩もいかないうちに背がなにかにぶつかり、声にならない悲鳴が喉に詰まる。心臓が止まってしまったのではと、衿の合わせをぎゅっと握った。

「ここでなにをしている」

 背後からかけられた声と忘れられない気品のある甘い香りが、停止したかと思われたリーリュアの心臓の鼓動を速める。

「……苑輝様?」

 首だけを巡らせ、後ろの存在を振り仰ぐ。
 苑輝はため息混じりに問いを重ねた。

「ここでなにをしている。思悠宮は真逆の方向だが?」

「散歩を……。それよりっ!」

 リーリュアは恐れる気持ちを奮い立て、件の窓へと視線を戻す。

「あの塀の内で老女が……」

 しかしそこにはすでに彼女の姿はなく、歌声ももちろん聞こえない。夏の熱気が見せた白昼夢というにはあまりにも鮮明な残像に、リーリュアは粟立つ腕で寒気のする自身の身体を抱く。

「あの者はいったいだれなのです? なぜあのようなところに?」

 苑輝が花窓に向けた目は、リーリュアがこれまで見たどんな眼差しより冷たく、凍りつくようなものだ。

「あれは曹《そう》皇太后。私の母だ」

「お母……様?」

 意外な正体を知り戸惑うリーリュアの身体が傾ぐ。動悸が止まらず、背中を嫌な汗が伝う。膝から力が抜けていく彼女を苑輝が支え、耳に口を近づけた。念じるように言葉を吹き込む。

「ここには二度と近づくな。そなたもあのようになりたくなければ、一刻も早く後宮から去れ」

 離れたところで身を固くして控える紅珠を呼び、まだ呆然としているリーリュアを預ける。

 細腰を抱えていた大きな手の熱が離れていくのを感じて、リーリュアは思わず苑輝の長袍の袖を掴もうとするが、力の入らない指先から絹地はするりと抜けていく。

「お待ちください」

 リーリュアの掠れた叫びが、苑輝の足を止める。だが、

「いつまでもこんなところにいてはいけない。命が惜しければ、早く国に帰りなさい」

 振り返ることもせず幼子を諭すように言い置き、宮の中へ消えていった。

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