愛し君に花の名を捧ぐ
 その後どう思悠宮まで戻ったか、リーリュアははっきりとは覚えていない。

 予定より大幅に時間を超過して戻ってきた彼女に方颯璉は特大級の雷を落としたが、どんなにこんこんと説教をされても、ぼうっとする頭には少しも響かなかった。

 就寝前のリーリュアの房へ、紅珠が寝支度を整えにやってきた。
 寝衣の着替えを手伝い、香油をつけ丁寧に髪を梳く。その間も、鏡台に向けられたリーリュアの瞳にはなにも映っていないようだった。。

「……昼間は、申し訳ありませんでした」

 櫛を手にしたまま、紅珠が鏡越しに謝る。彼女の消え入りそうな涙声で、ようやく意識が現実に引き戻された。

「気にしなくていいのよ。仕方がないわ。わたくしだって、蛇や蜘蛛は苦手だもの」

 気持ち悪いと思うものに、無理に近寄ってくれとは頼めない。こうして世話をしてもらうのも気が引けてくる。

「いえっ! いいえ、そうではないんです。西姫様が蛇や蜘蛛だなんてとんでもない!」

 梳る手に余計な力が入って、リーリュアの髪が引っ張られた。思わず顔をしかめると、紅珠はなおさらあたふたと取り乱す。

「ねえ、紅珠。落ち着いてちょうだい。わたくしは怒っているのでも、咎めているわけでもないの」

 両手で櫛を握り唇を震わせる紅珠の手に、リーリュアは躊躇いつつ揃えた指先で触れる。

「す、すみません」

 ぐすりと鼻を鳴らしながらも紅珠は拒否しなかった。安堵したリーリュアはさらに手を重ねる。

「私、ここへ来るまで、異国の人を見たことがありませんでした。西姫様が初めてです」

 気持ちが落ち着いてきたのか、紅珠がぽつりぽつりと話を始めた。

「それまで西方の人たちは、身体が大きくて粗野で乱暴だと聞かされていて……っ!」

 己の失言に気づいた紅珠は目を泳がせる。

 葆にも異国人がまったくいないわけではない。この数年で盛んになった交易により、宮処にも様々な国からいろいろな目的で人々が集まっている。
 それでもリーリュアたちのように、髪も眼も葆の民とまったく違う色をした人はまだ珍しい。皇宮に女官として入宮できる良家に育った令嬢となれば外出もままならず、余計目にする機会などなかったのだろう。

 リーリュアが包む彼女の手までが小刻みに震えだした。リーリュアは、宥めるように優しく手を叩いて先を促す。
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