愛し君に花の名を捧ぐ
 まるで雲の上を歩いているかのような足取りのまま皇太后が降り立った庭は、先日リーリュアが覗いたものと別の場所のようだ。薄紅色の花を付けたたくさんの芙蓉が風に揺れ、うっとりとそれを眺める皇太后の口元からは、あの歌が小さく漏れている。
 アザロフでは見かけない花が咲き乱れる光景に、暫しリーリュアは魅入ってしまっていた。

 カシャンと耳障りな音をたて、釵《かんざし》が落ちる。不審に思う間もなく、髷を結っていた髪が解けて背に流れた。

「まこと、金糸のよう」

 皇太后の枯れ枝じみた指の間を、リーリュアの髪がすり抜けていく。毛先に届く直前で、ぐっと手が握られた。

「痛いっ!」

 老女とは思えぬ力で髪の毛ごと頭が引かれて身体がよろめき、リーリュアはそのまま地面に膝をついてしまう。それでもなお、皇太后は毛先から手を離さずにいた。

「なにを……」

 皇太后を見上げた顔に唾が飛ばされる。腕をかざして避ける姿を、皇太后は薄笑いを浮かべて見下ろしていた。

「この髪で、その瞳で、陛下を誑かしたのか」

「そのようなことはしておりません!」

 反論したリーリュアの顔に平手が飛んでくる。ぶちぶちと音を立て抜けた髪と一緒に、リーリュアは地に伏した。

 ついた手の甲を皇太后が踏みしだく。リーリュアが苦痛の悲鳴を上げると、皇太后の眦と口の端が楽しげに吊り上がった。

「この手で陛下に触れたのか? この脚を我が夫に絡ませたか?」

 手の次は投げ出されていた脛を蹴り続ける。

 痛みと恐れで混乱するリーリュアの頭の中で、冷静な部分が違和感を覚えた。「我が夫」とは?

 その意味を考えようとするが、皇太后のつま先は徐々に移動して、ついに腹に届いた。執拗に狙われる下腹部を、リーリュアは身体を丸めて庇う。涙で滲んできた視界の片隅で、蒼白した顔の紅珠の行く手を、あの女官が塞いでいるのが見えた。

 不意に攻撃が止む。安堵して気が抜け、意識を飛ばしそうになったリーリュアの喉が絞まる。

「もしや、あのお方の御子など孕んではおらぬだろうな」

 細い首に骨と皮だけの指がめり込んでいく。否定したくても、喉が塞がれていて息もできない。
 それを誤解したのか、皇太后の目が細められた。

「ならば、母子仲良くあの世へ旅立つがよい」

 皇太后の指先にいっそう力が加わる。なんとかしなければ。遠退き始めた意識で必死に考えるのだが、痛めつけられた身体が重くていうことを利かない。開けているはずなのに、リーリュアの目の前が暗くなっていく。

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