愛し君に花の名を捧ぐ
◇ ◇ ◇

 皇帝が政務を行う間には複数の人が存在しているはずなのに、筆先が料紙の上を滑る音さえ聞こえそうなほど静まり返っている。
 苑輝が筆置きに筆を戻す僅かな音が響いたと同時に、室内に息遣いが戻ってきた。

「これで頼む。早急に庚《こう》州まで届けてくれ」

 書き上げた文面にもう一度目を通し頷くと、控えていた李博全にまだ墨の乾ききらない紙を示す。博全は一礼して、皇帝の手蹟による書を拝領した。

「いつもながらお見事です」

 己の意思を正確に伝えるための文字を書くには、膨大な疲労が伴う。それが勅書となればなおさらだ。
 博全はできあがった書へ、心からの賛辞を送る。
 主人の疲労を察した侍従が、一際良い香りのする茶を差し出した。

「……そういえば、陛下。礼部の長が、立后の儀の日取りをご相談したいと申しておりました」

「立后だと? なんのことだ」

 口にした茶を吹き出しそうになる。

「先日、西姫様の宮にお渡りになったと伺いましたが」

「あれは、見舞いに行っただけだ。いったい誰が……」

 リーリュアに皇帝の手がついたなどと余計な噂がたてば、国元へ帰す際面倒になる。頭を抱え嘆息をする主君に、博全は意外な顔をした。

「そうでしたか。西姫様もいっこうにお国へ帰るご様子もありませんし、てっきりこのまま思悠宮に留まられるのかと。ですので、私のほうからも屋根の修理を手配しようと思っていましたが……よろしいですか?」 

「屋根?」

「西姫様の房でも雨漏りが始まったと、方颯璉から修繕の催促がありました。さすがにそこは自分たちではできないからと、おっしゃっているそうです」

 ということは、あの廃墟を自分の手で修理したのだろうか。苑輝が訪れた際は外見まで気が回らなかったが、いわれてみれば、内部の体裁はそれなりに整えられていたことを思い出す。

「入宮されて間もなく内侍省を通じて依頼したそうですが、いっこうに直されないと、颯璉に愚痴を言われました。陛下がお止めになられていたのでは?」

 幼気な娘にひどい仕打ちをしている極悪人を見るような顔をされる。

「いや。さすがにそこまではしていない」

 むしろ、思悠宮がそれほどまでに荒廃していたのかと驚いた。
 あの泣き虫な姫が、そんな場所でよくぞ逃げ出さなかったものだと感心する。

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