愛し君に花の名を捧ぐ
 正直なところ、苑輝はこの日がそう遠くないうちに訪れることを知っていた。

 あの件で起こした発作のため、皇太后は床から上がることもできずほぼ眠ったままだった。ごく稀に目が開いたかと思えば意識は混濁しており、会話など到底成り立たない状態が続いていて、いつなにがあってもおかしくないと、侍医からの宣告を受けていた。

 苑輝は重い足を運び何度か見舞いに赴いていたが、目にしたのは後宮の華だったころの面影など微塵もない、衰弱しきった母の苦しげな寝顔ばかりだった。
 それでも数回、偶然目を覚ました母と対面したが、覚束ない意識の中で父帝や亡き兄と間違えられたことのほうが多い。静稜宮からの帰り道は、行き以上に心身が辛かった。

 だから国葬を終え、皇帝として、子としての責任を果たしたいま、ようやくひとつの重荷を下ろすことができる。苑輝はそう感じるのだろうと予想していた。

 ところが、肩の荷が軽くなったからといって、心の内まで軽くなることはなかったのだ。
 それもそのはずである。彼女が犯した罪までもが消えたわけではないのだから。

 ずいぶんと都合良く考えていた己に対し、自嘲の笑みを浮かべて回廊を進んでいた苑輝は、初秋の風に乗り聞こえてきた歌に足を止めた。

「ここは……」

 よほど気を抜いていたのだろう。これまで前を通ることさえ避け続けていた昇陽殿の前だった。そして歌声は、殿舎の前庭の方から聞こえてくる。

 灯籠の明かりを頼りに進むと、困り顔で立つ衛士が、一礼ののち少し先の暗がりを示す。無意識に足音を忍ばせ、苑輝は近づいていった。

「西姫」

 呼びかけに歌が止み、白い顔が振り返る。

「苑輝様っ!?」

 よほど驚いたのか、礼も忘れて目を瞬かせていた。
 続けて、身体を右に左にひねり、衣装におかしなところがないかを確認している。ほんの少しだけ曲がっていた帯の結び目を直すと、ようやく思い至ったのか、深々と腰を折った。

「此度の昭景《しょうけい》皇太后様、御崩御におかれましては……」

 苑輝はたどたどしく葆の言葉で弔辞を述べようとするリーリュアを制した。

「もういい。この数日、同じ言葉ばかりで聞き飽きた」

 葬儀では、リーリュアは同盟国であるアザロフの国使として、陵墓に向かう棺を囲む隊列を離れたところから見送っただけ。多忙を極めた苑輝と私的な言葉を交わすのはあの夜以来だった。
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