愛し君に花の名を捧ぐ
「それより、夜分にこんなところでなにをしていたのだ」
すでに夜も更けている。昼間はまだ夏の名残があるが、日が落ちるとともに気温はかなり下がってきていた。
「え? あ、そうです、月を! 月を観ていました」
リーリュアが天を仰ぐ。苑輝も同じ方向を見上げるが、暗い夜空には、月どころか星のひとつもない。
気まずそうに俯いたリーリュアの頭を苑輝が撫でる。
「今宵は故郷と同じ月が観られず、残念だったな。――帰りたいか?」
父母から遠く離れた地で、現れもしない月を待っていたのかと、苑輝は不憫に思う。ところがリーリュアは首を横に振った。結われていない髪が動きに遅れついてくる様は、麦穂が風に揺れているようで美しい。
「故郷《くに》から離れ、独りで寂しくはないのか?」
弾かれたように苑輝を見上げたリーリュアの長い睫毛が小刻みに揺れた。花びらを思わせる小さな唇が、開いては引き結ぶ、を繰り返す。
やがて眉尻を下げて、ひと言だけが吐息とともに零れ落ちた。
「……寂しいです」
「そうか」
やはり、早く葆から出すべきだ。あちらも彼女がここからいなくなれば、もう害する必要もなくなるだろう。苑輝は、片側に大きく揺れていた想いの天秤を逆に傾けた。
最後に、柔らかな髪をひと撫でして立ち去ろうとしたができなかった。リーリュアが苑輝の袖を掴んで離さなかったからだ。
「このようなときにわがままを言っているのはわかっています。それでも寂しいのです!」
眉根を寄せて苑輝に向けられた瞳は、怒りに燃えているようにも見える。
「苑輝様は会いに来てくださらない。颯璉は、淑女らしくないと、侍女たちとの他愛もないおしゃべりさえ許してくれません。後宮の人たちは皆、髪と瞳の色の違うわたくしを避けて通っていきます。キールはなにも告げずにいなくなってしまいました。……ここではだれもわたくしのことを、リーリュアと名で呼んでくれないのです」
矢継ぎ早に不満を爆発させたリーリュアの袖を握る手は、力が入りすぎているのか震えていた。
「なによりも、陛下がお辛いときに傍にいてお役に立てないことが、とても寂しいのです」
すでに夜も更けている。昼間はまだ夏の名残があるが、日が落ちるとともに気温はかなり下がってきていた。
「え? あ、そうです、月を! 月を観ていました」
リーリュアが天を仰ぐ。苑輝も同じ方向を見上げるが、暗い夜空には、月どころか星のひとつもない。
気まずそうに俯いたリーリュアの頭を苑輝が撫でる。
「今宵は故郷と同じ月が観られず、残念だったな。――帰りたいか?」
父母から遠く離れた地で、現れもしない月を待っていたのかと、苑輝は不憫に思う。ところがリーリュアは首を横に振った。結われていない髪が動きに遅れついてくる様は、麦穂が風に揺れているようで美しい。
「故郷《くに》から離れ、独りで寂しくはないのか?」
弾かれたように苑輝を見上げたリーリュアの長い睫毛が小刻みに揺れた。花びらを思わせる小さな唇が、開いては引き結ぶ、を繰り返す。
やがて眉尻を下げて、ひと言だけが吐息とともに零れ落ちた。
「……寂しいです」
「そうか」
やはり、早く葆から出すべきだ。あちらも彼女がここからいなくなれば、もう害する必要もなくなるだろう。苑輝は、片側に大きく揺れていた想いの天秤を逆に傾けた。
最後に、柔らかな髪をひと撫でして立ち去ろうとしたができなかった。リーリュアが苑輝の袖を掴んで離さなかったからだ。
「このようなときにわがままを言っているのはわかっています。それでも寂しいのです!」
眉根を寄せて苑輝に向けられた瞳は、怒りに燃えているようにも見える。
「苑輝様は会いに来てくださらない。颯璉は、淑女らしくないと、侍女たちとの他愛もないおしゃべりさえ許してくれません。後宮の人たちは皆、髪と瞳の色の違うわたくしを避けて通っていきます。キールはなにも告げずにいなくなってしまいました。……ここではだれもわたくしのことを、リーリュアと名で呼んでくれないのです」
矢継ぎ早に不満を爆発させたリーリュアの袖を握る手は、力が入りすぎているのか震えていた。
「なによりも、陛下がお辛いときに傍にいてお役に立てないことが、とても寂しいのです」