闇に紛れてキスをしよう







目の前でほにゃほにゃ笑ってる田中さんは、いつもの田中さんみたいで、いつもの田中さんじゃなくて…。


さっきヘリポートで強く掴まれた手首とか、あの時に笑ってなかった瞳とかを思い出しながら、目の前で楽しそうに微笑んでるこの人が、急に怖くなった。




「そうそう、三上ちゃん。騙しててゴメンね?おれ、田中ヒロシって名前じゃねーんだ」

「……うぅっ」

「本当の名前はね、岡部。…岡部悟っていうの」




田中さ…じゃなくて岡部さんの言葉に、私は驚きを隠せず目を白黒させた。だって、岡部悟って……




私じゃなくても『岡部悟』の名前は日本中が知ってると言っても過言じゃない。


天才芸術家の父を持ち、その才能を十二分に受け継いだ芸術界のサラブレッド。


父親の岡部瞬は、国内外の賞をいくつも受賞して、日本を代表する有名人の中に必ず名前が上がる程の人物。メディア嫌いが災いして、写真や映像など彼の姿を映したものが殆ど存在しない。


そんな彼が他界して15年、彗星の如く芸術界に現れたのが息子の悟だった。


作品のタッチは父親譲りな点が多々見られ、それでも作風は父親の瞬よりも自由奔放…という言葉がしっくりくる印象で、そんな彼を芸術界が放って置くハズもなく、神様の如く祀り上げられていく様を日本中の国民が見ていた事は間違いない。




「ふぐっ……うぅっ」

「んふふ…そうそう、普段はねげーじゅつかってヤツやってんだよね…だから管理人室にいると眠くってよぉ…」




そんな岡部悟は、メディア嫌いな所も父親譲りで。国内最大級の芸術賞を受賞した時も、海外で名のある賞を受賞した時も、メディが入る時は姿を現さず、姿を現す時はメディアに撮影規制が掛かる程だと、ニュースで報じられていた。


ふがふがともがく私を余所に、岡部さんは壁面にある大きな本棚からスケッチブックを取り出して、同じ本棚に置かれていたペン立てから鉛筆を数本掴むと、私の所に戻ってきて。


放り投げられてるソファの前にどっかり胡坐を掻くと、ペラ…と捲ったスケッチブックの上と私を交互に見ながら鉛筆を動かし始める。


その姿は、眉間に皺を寄せて、唇を尖らせて、まるで難しい事でも考え込んでいるような表情にも見えたけれど…。




「(なんでこのタイミングでスケッチ!?)」




ふがふが…と言葉にならない音が響くばかり…。






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