偽りの先生、幾千の涙
榎本果穂からのコンタクトがあったのは、当日の朝の事だった。
俺が出勤する時間に榎本果穂も家を出たようで、1階のエレベーターの前でばったり会った。
「おはようございます。」
「おはよう。
早いんだな。」
「今日は早くに目が覚めてしまったんです。
でも…もう少ししてから行きますね。
一緒に学校行くと、勘違いされる方もいらっしゃいますから。」
榎本果穂はそう言うと、上に行ってしまったエレベーターを待つ。
あたかも忘れ物をしたかのようだった。
俺は先にマンションを出ようとしたが、彼女の声に引き止められる。
「…伊藤先生、1つお願いしてもいいですか?」
「どうした?」
「今日、やっぱりお家にお邪魔してもよろしいですか?
とても下校時刻までに済むようなお話じゃないと思うんです。」
「…いいよ。」
「本当ですか?
ありがとうございます!」
初めて恋人の家に行く少女のような顔をした榎本果穂が、お礼を言ってくる。
朝に相応しい爽やかな笑みに、俺は騙されなかった。
いつもと雰囲気を変えたのは、心の中で考えている事を悟られないようにするのが目的だ。
「家に来ていい時間になったら、こっちから連絡する。
そうだな…電話番号は分からないから、メールするよ。
じゃあ、また学校で。」
「はい。
お願いいたします。
では私は一旦戻りますね。」