偽りの先生、幾千の涙
明らかに弾いてほしそうな目を向けてくる音楽教師へ微笑みかけて、とりあえず逃げようかとも考えた。
一曲弾いただけで帰してくれるとも思えないし、どころかこいつの目的は俺の演奏ではないのは分かっている。
窓もカーテンもしっかり閉めて、防音設備に金のかかった音楽室、しかも部活がない…こんな女、全く趣味じゃないんだけどな。
「伊藤先生、どうされましたか?」
とりあえず、その香水を洗い流してほしい。
とういか、さっきから少しずつ距離を縮めてくるのやめてくれねえかな、俺が満更じゃないとか思ってるわけ?
急用を思い出した、そう言おうとした時だった。
「榎本さん!ちょうどよかった!」
スライド式のドアのガラスの向こうに、長い黒髪を靡かせた少女が歩いていくのが見えた。
俺はドアを開けて、通り過ぎようとした一人きりの彼女を引き留める。
振り向き方はエレガントで美しいのに、榎本果穂はとても嫌そうな顔でこちらを向いた。
綺麗だけど、そんなに顔を歪ませてはせっかくの優雅さが台無しだ。
だがそれも、ここに俺しかいないと思っているからだろう。
もしかしたら、復讐の件で呼び止められたのかと思っているかもしれない。
今ここでそんな勘違いが起きて、そういう会話をされたら、お互い困る。
だから俺はきちんと教えてあげた。
「榎本さん、ピアノ上手いよね?
伴奏お願いしていい?
俺、今からチェロ弾くんだけど…」