偽りの先生、幾千の涙
「時間になったら、ここに来たらいいですか?」
「いや、俺が迎えにいく。
一応、俺が誘拐したって事にしないといけないから。
玄関から見える野老に、持っていくものを置いといてくれたら、それでいい。
それ以外の事は、逆にするな。」
「誘拐?
てっきり逃避行かと思いました。」
「実際はそうだけどな。
建前は誘拐だ。
お嬢様を誘拐して逃げたってな。」
「極悪人ですね。」
「ああ。
俺は悪い奴だよ。」
そう言った伊藤は、何処か悲しそうだった。
そうか、この人は今、道を踏み外している真最中なのだ。
「伊藤貴久は犯罪者だ。
罪人の名だ。」
「…ご自身の名前がお嫌いなのですか?」
「いや、嫌いじゃない。
でも…本名の方が好きだな。」
「本名?」
伊藤貴久が偽名である事は想像していた。
だが、そんな物の存在がここで明らかになるとは思っても見なくて、ほんの少しだけ驚いた。
「お名前、教えていただいてもよろしいですか?」
尋ねると、伊藤は優しく微笑んだ。
本当に本名が好きなんだって分かった。