あの日、あの桜の下で
不意に一陣の風が吹いて、桜の花びらを空に舞い上げていく。その風の中で、尊が口を開いた。
「……小晴?……今、幸せか?」
尋ねられて、小晴は花吹雪から尊へと視線を合わせる。
その眼差しと、空気を伝って感じ取れる尊の息吹は、小晴のあの日の記憶と少しも変わっていなかった。
「ママ――っ!」
その時、小さな子どもの声が響いた。小晴が振り向くと、その男の子は駆け寄ってきて小晴の足に抱きついた。
「どうしたの?一人で来たの?」
小晴がその男の子に、優しく問いかける。
「ううん。パパと来たの」
と、その子が指差した先、桜のトンネルの向こうに尊も目を遣ると、そこに一人の男性が立っている。
「パパがね。タコ買ってくれたの」
「タコ?」
「あのね。お空を飛ぶんだって。川のところでパパが飛ばしてくれるって!ママも、ほら、来てごらん!」
と言いながら、小晴の息子は彼女の手を引いて連れて行こうとする。
小晴は我が子に引っ張られながら、尊へと振り向いた。そして、視線を絡めて見つめ合うことで、言葉にならない想いを交わす。
たった一瞬、たったそれだけで十分だった。
最後に見た微笑みが、お互いの心にずっと残り続けた。