戸惑う暇もないくらい
「広瀬か」
「お疲れさまです。今日もいらしてたんですか」
「あぁ…今帰りか」
「はい、半日シフトなので」

エレベーター前まで歩いてきた藤島さんが立ち止まる。
先日とは違う黒のスーツに臙脂色のネクタイが目を引く。
自然な距離で藤島さんが隣に並んだ。

どうしたのか聞こうとしたが藤島さんがこっちを見たあと視線を流して躊躇ったような仕草を見せ、それから口を開いた。

「広瀬、ちょっと付き合ってくれないか」
「え?」
「近くでコーヒーでも飲まないか」

いつもと変わらない感情の読めない無表情に切れ長の目からその意図を汲み取ろうとするも読めなくて混乱する。

「あの…」

誘われた理由を尋ねようとした時、無情にもきゅるる、と空腹に耐えかねたお腹から誤魔化しのしようのない音が鳴った。
明らかに藤島さんにも聞こえる音量だ。

「!」

あまりの恥ずかしさに一気に顔に熱が集まると同時に両手でお腹を押さえるもその行動が無意味なのは分かっている。

「くく…何か腹に溜まる方がいいな」

恥ずかしさで藤島さんの顔が見られないでいると珍しい笑い声が聞こえた。
その珍しさと羞恥心が拮抗した結果、好奇心に負けてちらりと顔を見上げると、付き合っていた時でさえ滅多に見られなかった藤島さんの目と口元を和らげた表情に図らずも心臓が跳ねた。

「来たぞ」

何か言おうとするとタイミング悪くエレベーターが到着してしまい、藤島さんが先に乗り込んだ。
珍しく誰も載っていない狭い箱の中でせめてもの言い訳を口にする。

「あの、たまたまタイミング悪くてお昼食べてないだけで…」
「ちょうどいい」

自分からそう言ってしまったものの、完全に断れる流れではなくなってしまった。

「藤島さん、お仕事途中じゃなかったですか?わざわざ外に出なくても社食とかで良かったんじゃ…」

ふと気になって聞いてみるも、藤島さんは「いや…」と珍しく歯切れの悪い返事をしたあと、横に並んだ私の顔をじっと見つめた。

「周りに聞かれたくないからな」

その言葉に嫌に心臓の鼓動が早くなる。

周りに聞かれたくない話。
人事の藤島さんがこの時期に個人的に話すことって。

一気に不安が心を覆った。
どんな結果でも、那智を応援するって決めた。
だから。

最悪の事態を予想して鞄を持つ手に力が入った。

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