戸惑う暇もないくらい
藤島さんの口から発された言葉を理解するのに時間を要した。
しばらく沈黙している私を待つように藤島さんは何も言わず、またコーヒーを一口飲んだ。

「え、と…私は…」
「君に異動の辞令は出ていない」

その言葉を聞いて一気に力が抜けた。

なんだ、私じゃなかった。
那智と、離れなくていいんだ。

そう思った瞬間、じわっと目尻に涙が浮かんだ。
目の前の藤島さんが珍しく驚いたような表情を見せ、慌てて目元を隠そうと俯きかけたとき、目尻を冷たい指の背が撫でた。

「え…」

テーブルに肘を付き、乗り出したような姿勢で藤島さんは私の目元に手を伸ばしていた。

「あいにくハンカチを持っていない」

だからって。

急に触れられて緊張が走ると共に驚きで涙は引っ込んでしまった。
藤島さんはいつも無表情のはずなのにどこか落ち着きがないように見えて、私も言葉を発することができなかった。
二人の間を沈黙が包み込んだとき、マスターが白いお皿に乗せたサンドイッチを運んできてくれた。

「お待たせいたしました」
「ありがとうございます」
「可愛らしいお嬢さん、こちらはサービスです」

そう言ってお盆からもう一つ小さいお皿がテーブルに乗せられた。
そこには可愛らしいサイズのガトーショコラが白いクリームシャンテと共に乗せられている。

「わぁ、ありがとうございます」

思わず笑顔で返すとマスターはお茶目なウインクを投げてくれた。

「初めてお連れしてきてくれた方がこんなに可愛らしい女性だとは」
「同僚です」
「そうでしたか、ごゆっくり」

マスターは軽く頭を下げてカウンターに戻っていった。

「楽しい方ですね」
「俺にサービスなんてしてくれたことはないがな」

冗談混じりに呟いて藤島さんは気を抜いたように言った。
彼のこんな素の姿を付き合っていたときはあまり見なかったような気がする。
お互い時間を経て変わったのかもしれないと思うと口元が緩んだ。

「いただきます」
「俺も一ついいか」
「ぜひ」

喫茶店ならではの懐かしいようなシンプルなタマゴサンドを頬張るとバターとタマゴが口の中に広がった。

「美味しいです」
「…そんな顔久しぶりに見たな」
「え?」
「いや」

ぼそっと呟かれた言葉は耳に届かず、聞き返そうと思ったのにコーヒーを飲む動作に遮られてもう一度聞くことはできなかった。

サンドイッチを食べたあと、支払うと言ったものの「付き合わせたのは俺だ」と一切受け取ってもらえなかった。
そういうところは付き合っていた頃と変わってないな、とお礼だけ伝えることにした。

「藤島さん、来月からよろしくお願いいたします」
「こっちこそ、フォロー頼むよ」
「藤島さん程の人がよく言いますね。…あの、今日どうして教えてくださったんですか」

自分が異動だと思ったから疑問に思わなかったが、結局私は今回の異動に何も関係なかった。
本来辞令が出る前に異動の内容を漏らすのはタブーのはずなのに。

「いや…この間、ストックで思わせ振りなことを言ったからな。どうせ明後日には分かることだ。気にするな」

藤島さんは少し視線を伏せたように見えたが、すぐにいつもの無表情で私を真っ直ぐ見てそう言った。

「それじゃ、俺は本社に戻る」
「はい、ご馳走さまでした」

颯爽と歩いていく藤島さんを見送り、自分も駅に向かって歩き出した。

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