戸惑う暇もないくらい
「成川さん、イケメンだよねー」

成川さんを見送ったあと、若菜が近付いてきた。

「そうだね、いい人だし」
「彼女いるかなぁ」
「ちょっと取引先なんだからやめてよね」
「イケメンセールスいいなー。あ、イケメンと言えば、さっき人事の藤島さん婦人服の事務所に来てたんだけど」

懐かしい人の名前にぴくりと反応する。
若菜に悟られないように相槌を打った。

「もうそんな季節か…」

3月に入り、異動の噂が飛び交う季節。
どうしてもそわそわしてしまうのはいつどこに飛ばされるか分からないからだ。

「でも婦人服事務所ってことは…うちとは限らないし」
「どうかなぁ。広瀬もう5年目でしょ?長いよね」
「…店出し分取りに行ってくる」

からかうような目で見てくる若菜の視線から逃げるようにストックルームへ向かう。
パタンと扉が閉まるとそこは肌着売り場にある全メーカーのストックが無機質な業務用スチールラックに並べられていた。

異動か。秋のマネージャーとの面談でも肌着のままの希望出したけど。

「県外はやだなぁ」

ぽろっと本音が溢れる。
高菱屋は都内以外にも、東海、関西、九州にも店を持っている。高菱屋の社員である以上、それらを含めての異動も十分にあり得るのだ。

「異動したくないか」

予想しなかった声に驚いて振り向くと肌着事務所に続く扉から現れたのは噂の藤島さんだった。

「藤島さん…っ」

グレーの上品なスーツを着こなす長身とはっきりした目鼻立ちと意志の強そうな瞳。
3年先輩の藤島隆生(ふじしま たかお)さんは私が新入社員で紳士服に仮配属されたとき、指導してくれた人だった。

そして、僅か1年だけ付き合っていた元恋人だ。

「久しぶり。相変わらず元気そうだ」
「はい…藤島さんこそ」
「普段本社だから久しぶりに店舗来て懐かしくなった」
「お忙しそうですね」
「まぁこの時期はどうしてもな」

困ったような笑い方はあの頃と少しも変わっていない。

「お身体気をつけてください」
「ああ。来週楽しみにしてろよ」
「…藤島さんに言われるとほんとに怖いんでやめてください」
「冗談でもないけどな。肌着からも異動はある」
「えっ」
「それじゃ、頑張れよ」

そう言って藤島さんは従業員通路へと出ていった。

そんな意味深なこと言われても。
肌着からの異動があるなんて。

急に現実味を帯びた話に不安が胸を渦巻く。

もし、都内を出ることになったら。
まだ2ヶ月経っていない同棲もなくなる。
それどころか下手したら遠距離恋愛。

最悪、別れることになるかもしれない。

そこまで考えて苦しくなり、ぎゅっと手を握りしめた。

その日の仕事はどうしても異動のことが頭を支配し、どこか上の空になってしまうのだった。

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