鎖骨を噛む





今日、私は初めてバイトをズル休みする。別に休んだっていい。社員じゃないし、店の売り上げが上がったところで、私には何の見返りもない。仕事に対しての責任感もない。辞めてくれって言われたら素直に辞めてやる。何か訊かれたら、風邪を引いてましたとか、入院してましたとか適当なことを言っておこう。それがいい。それでいい。



空は曇天。今にも雨が降り出しそうな空。この空は、「花曇り」って言うらしい。中学か、高校の国語の教科書に書いてあった。こういうどうでもいいことは覚えていて、でも、この「花曇り」。なんだかいい言葉だなって思う。綺麗な日本語ってきっとこういう言葉のことを言うんだろうなって思う。日本人に生まれてきて本当によかったな。



交差点で、必ず信号待ちに引っかかる。片方は渡れるけど、もう片方で待たなきゃいけない。信号待ちって長いから嫌い。例えばこの信号待ちの途中で、急にお腹が痛くなって、トイレに行きたくなっても、近くにトイレがある場所はないから、待たなきゃいけない。そう考えると、信号待ちって恐ろしいなって思う。なかったらなかったで恐ろしいものではあるけれど、場合によっては、それが恐ろしいものに変わる。表裏一体論って言うのかな? 「マイペース」ってマイナスな言葉だけど、裏を返せば「慎重」っていい言葉になるのと同じ。これは、中学の時、道徳の授業で習ったこと。



信号が青に変わった。私は、スキップをしながら渡った。後ろを自転車に乗ったおばちゃんが追い抜いて行った。自転車が欲しいなって思う。駅まで結構距離があるし、バイトに遅れそうになっても、自転車があれば、出る時間を少し遅くできる。自転車を買いたい。自転車屋さんはなぜか、いろんな場所で見かけるけど、どうやって買うのかわからない。店員さんに声をかけたり、いろんなことを訊かれるかもしれないとか考えると、どうしても気が竦んでしまう。コンビニで肉まんを買うくらいのやりとりだったらいいのに。



近くにガソリンスタンドがある。レギュラーの値段を表記している。これが高いのか、安いのかわからない。私は免許を持っていない。東京にいるんだし、東京は車よりも電車の方が便利がいいし、要らないって思ってた。実際、必要としない。もし、電車で行けない、地味に遠いところに行くことがあったら、タクシーを使えばいい。バスだってある。東京には何でもある。その代わりに、自然を失った。便利を求めすぎて、人間ではない命を犠牲にした、悲しい街だなって思う。でも、自然に追いやられることだってある。クマとかサルとかイノシシによって。そして、土砂崩れとか、土石流によって。東京では、クマもサルもイノシシも動物園にいる。崩れる土砂もない。



ゴルフショップの傍にある細い路地裏を入ると、宅配便のトラックが止まっていた。宅配便の人って、いつ休むんだろう。いつ、お昼ご飯を食べたりするんだろう。いつトイレに行って、いつ心を休めるんだろうっていつも思う。引っ越してきてからすぐに布団とベッドを買った。それを届けてくれた時、なんだか申し訳ない気持ちになった。部屋の中にベッドを横にして運び入れてくれて。私が布団でも寝れる人だったら、ベッドなんて買わなかったら、宅配便の人はこんな苦労をしなくて済んだはずだ。たまたま配達区域に、私が引っ越してきたせいで、こんなことになって。これを「運命」という2文字で片付けるのは、あまりに残酷だ。



「運命」は残酷……かあ。だとすると、私とムルソーさんの出会っていない出会いも、残酷なものなんだろうか。決してそうじゃないと私は思う。というか、そう思いたいし、そう思わないと恋なんてやってらんない。




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