世子様に見初められて~十年越しの恋慕
屋敷内も静けさに包まれる子時(チャシ:午後十一時~午前一時)、水汲み場の前に男女の姿がある。
「お嬢様、このような策は決して良いものとは思えません。どうか、お屋敷にお戻りに……」
「私なら大丈夫よ。そこら辺にいる両班の娘とは違い、多少なりとも体を鍛えているもの」
「ですが、ついこの間まで病に伏していたのですから、ご無理をされると……」
「もうっ、ユルったらチョンアがいないからって、小言まで真似しなくていいのよ?私の事なら本当に大丈夫だから」
「そうは仰いましても……」
「せっかく戸判様のお屋敷に潜り込むことが出来たのだから、手ぶらでは帰れないわ!」
「………はぁ、お嬢様………」
水汲み場の前にいるのは、今日新入りの奴婢としてこの屋敷に来たばかりのユンギとソニなのだが、その正体はまさしく、ユルとソウォンである。
事の発端は半月ほど前に遡り、ソウォンが病に伏していた際に世子が毎夜の如く見舞いに来るようになり、二人は再会した際の出来事を始め、色々な話をする仲になっていた。
好奇心旺盛のソウォンにとって、世子が賜った王命の話はとても興味深く、本来なら耳にする事さえできぬゆえ、とても他人事とは思えなくなっていた。
たまたま役所の一部が火事で焼けてしまい、新しく建物が立つまでの間、官奴婢(国家の所有物として官庁などに所属した奴婢のこと)が、一時的な住まいとして高官の屋敷に送り込まれて来たのである。
その話を水面下で入手したソウォンは、戸曹の屋敷に送り込まれる官奴婢の夫婦になりすまし、潜り込むことを思いついたのだ。
変装した奴婢とはいえ、ソウォンの美貌は際立っている。
万が一のことでもあれば、それこそ大問題だ。
チョンアが幾ら説得しても耳を貸そうとしないソウォンに対し、最大限の防御策がユルである。
夫としてソウォンの身を何が何でも守るように言い遣って来たのだ。
とはいえ、両班育ちのソウォンが奴婢の仕事をするのはかなり酷である。
水汲み、洗濯、炊事、掃除はどれも重労働なのだから。
若さゆえに完璧にこなせなくとも問題視されないが、さすがに“出来ない”では済まされない。
強い意志が宿る瞳を目にして、ユルは盛大な溜息を漏らした。