今晩、なに食べようか
第七話「俺、デザートのこと考えてたわ」
それから裕樹は、結局九月の半ばまで私の家に居候した。
裕樹はきっと、居候ではなく同棲だと、強く主張するだろう。
……その言葉のほうがしっくり来るというのなら、まあ、そう言ってやってもいい。事実、裕樹が東京に帰るまでの間に私たちの関係は変わったのだから。
ご飯を一緒に食べ、寝起きを共にするという濃密な時間の中で、私の裕樹への気持ちがしっかりと変化していったのだ。気持ちが変わることで、向き合い方も変わった。
まず、「姉さん」と呼ばれなくなったのが大きいかもしれない。
元彼が私を名前で呼ぶのを聞いて、もう我慢ならなかったのだという。あいつが呼ぶのは良くて俺が呼ぶのはダメだなんて認めない、だなんて言われてしまった。これまでは便宜上、姉と呼ぶしかなかったけれど、自分の気持ちを打ち明けたからにはもう取り繕う必要はなくなったと判断したらしい。
好きだと言った男が、毎日「おはよう、芹香」「いってらっしゃい、芹香」「おかえり、芹香」などと呼びかけるのだ。嫌でも存在を意識してしまう。
自分でもずいぶんチョロい女だと呆れてしまうけれど、私は裕樹に好きだと言われて嫌な気はしなかったのだ。それどころか、その瞬間から男として意識してしまって、そんなに時間も経たないうちに「もうダメだな」と白旗をあげた。
恋人ではなく、家族になりたいと言われたことに何より気持ちを動かされた。
裕樹に対する思いが恋かどうかと聞かれると、正直わからない。けれど、離れたくないという気持ちは、たぶん私も裕樹も同じくらい強いと思う。
だから、これから先も一緒にいるたったひとりの人として裕樹を選ぶことに、私は迷いはない。
というわけで、私たちの関係は姉弟以上恋人未満に昇格した。というより、恋人をすっ飛ばして家族になったのだ。
これからのことも、色々話した。
まず、裕樹は東京に戻ったら演劇関係にすべてきちんと決着をつけると言っていた。これから先、就活を始めるとしたらどっちみち役者を目指す人たちとは温度差が出てくるのは必然だから、やめるなら今だろうということだ。
裕樹は、真面目に就活をするつもりらしい。しかも、福岡勤務狙いで!
裕樹は卒業してすぐ、私と一緒に暮らしたいと言っている。そのためには福岡で就職しなければならないということで、今からずいぶんと張り切っているのだ。
でも、とりあえずはいろんな企業を受けることを勧めておいた。ここ数年売り手市場傾向とは言え、楽々就職できるというわけではないのだから、最初から門を狭める必要はない。
それに、裕樹が勤務が決まった場所で私がまた就活をしてもいいし、少しくらい離れていても平気だし。何せ、私たちは別に遠距離恋愛をする恋人ではなく、家族なのだから。
ちょっと私たちの関係にはロマンティックさが足りないなとは思うけれど、離れていても安心というのは強みだと思う。
でも裕樹としては、私がまたホイホイ男を部屋にあげないかということが心配らしい。
だから、就活を口実にせっせと福岡に足を運び、そしてそのまま同棲したいという考えみたいだ。
これだけだと、まだ何だか度が過ぎたシスコンの弟のようにも思えてしまう。
けれど、裕樹はもうずっと長いこと、私のことを異性として好きだったのだという。
だから、告白されたあの日から、そういった意味でも私たちの関係は変わった。
あれから、私は布団を買い換えさせられた。裕樹曰く、元彼が使った……というよりそういうことをした布団をいつまでも使っていて欲しくないらしい。それはまあ、ごもっともな話で、仕方なく某お値段以上のあのお店で新しい布団を買った。
本当ならベッドも買い換えてしまいたいと言われたけれど、それはさすがにボーナスまで待ってもらうことにした。
裕樹はダブルベッドを買うと張り切っているけれど、奥の部屋がベッドで埋まりそうで、それはちょっと嫌かもしれない。
だから、私は密かに新しい部屋を探している。裕樹がどこに勤務するかはわからないけれど、どこからでも会いに来やすい博多周辺で探すのもありかなと考えている。
今度は2Kではなく、広めの1LDKか2DK狙いにするつもりだ。築年数に目をつむれば、手頃な賃料で立地の良い物件を見つけられるだろう。
新しくてオシャレで広くて好立地な物件には、いつか裕樹と二馬力で働いて住むのが、私の今の密かな野望だ。
誰かと一緒に住むための家を探すことになるなんて、少し前の私には想像できなかったけれど、今はそれが楽しくて仕方がない。
男と暮らすなんてこれまで考えられなかったのに、相手が裕樹となると何の抵抗もなくなってしまった。
そういえば、同僚の子が「いくら仲良くても兄さんと暮らすなんてあり得ない」と言っていた。でも、私は最初からあの子がいつまでうちにいようが構いはしなかったから、もしかしたら気がついていないときから私にとって裕樹は弟ではなかったのかもしれない。
***
年末ムード漂う駅で、私はひとり佇んでいる。
世の中はクリスマスが終わればあっという間に年の瀬といった雰囲気になり、師走の気忙しさそのままに年度末を迎えるのが社会人というものだ。
仕事納めが明後日だから、正直まだ体はきついし心は休まる余裕がない。
それでも、私は今この瞬間の人待ちの時間が愛おしくてたまらない。
邪魔にならないように改札口で待ち構えていると、ちょうど電車が到着したらしく、わらわらと人が出てくる。
時間的に、裕樹はこの中にいるはずなのだ。
今日は、裕樹が東京からやってくる。
年末年始を一緒に過ごすのだ。
大学生のときのことを思い出すと、クリスマスシーズンから正月の三が日が終わるまではバイトの書き入れ時だった。その儲かるチャンスをふいにしてでも、裕樹は私と過ごすことを選んでくれたのだ。
その代わり、クリスマス当日までみっちり働いたらしいけれど。
正月を一緒に過ごすため、私たちはお互い、クリスマスはリア充を横目にひたすら仕事を頑張ったのだ。
「芹香!」
キョロキョロと改札を抜けた人波に目をやっていると、ポンっと肩を叩かれた。そしてそのまま、脇へそれるよう促される。
「裕樹」
「もー……こんな改札の真ん前で待ってたらあぶないだろ? まあ、すぐ顔見れて嬉しかったけど」
「顔見て嬉しいって、しょっちゅうスカイプしてるじゃん」
「じかに見るのと画面越しは違うんだよ」
自然な流れで地下鉄の乗り場へと私たちは歩き出していた。このまま、まっすぐ私の部屋へと帰るつもりなのだろう。
「ねぇ、今晩、なに食べようか?」
歩きながら裕樹を見上げて尋ねると、ちょっと意味深な笑顔を向けられた。
何というか、ちょっといやらしい。絶対に良からぬことを考えている。
「ねぇ、何でそんな顔で笑うの」
「そんな顔って、どんな顔?」
「……いやらしい顔」
「まぁ、いやらしいこと考えてたし」
「何でよ! ご飯の話してたんだよ!」
「ごめんごめん。……俺、デザートのこと考えてたわ」
「……」
戸惑う私を見て、裕樹はいやらしい笑みをより一層深くする。いやらしいというより、色気がダダ漏れの笑顔だ。私より三歳も年下のはずなのに、時々妙に色っぽい。
関係が変わってから、裕樹にはこうして翻弄されっぱなしだ。
姉として接していたときは気がつかなかったけれど、この子は思いきり肉食系だ。見た目は草食系っぽいから、いわゆるロールキャベツ男子というやつか。
「……ロールキャベツ、食べる?」
キャベツの旬ではないけれど、久しぶりに食べたくなってしまって思わず尋ねていた。
柔らかなキャベツの中からジュワッと肉汁とスープがほとばしるのを思い浮かべて、胸がときめく。手間がかかっても、あれを作って食べたくてたまらなくなってきた。
それなのに、裕樹はふるふると首を横に振った。
「却下。時間がかかりすぎる。今夜はぶっちゃけ、コンビニおにぎりとかでもいいよ。……俺が食べたいものは別にあるわけだし」
「も、もう! そういうこと言うの禁止! わかったから。何か買って帰ろう」
「うん」
恥ずかしくなって、私は裕樹を置いて先を歩き始めた。
これでは先が思いやられる。
姉としての威厳は、年上としての矜恃は、このままではあっという間に押し流されてどこかにいってしまいそうだ。
……それでもいいと、ちょっと思ってしまっているけれど。
コンビニに行ったら、何を買おうか。
そういえばこの時期、コンロで温めて食べる鍋物があったはずだ。別々のもの買って二人で分け合うのなんて、いいかもしれない。
お鍋って、家族っぽくて好きだ。ひとりの鍋は味気ないけれど、二人で食べると、きっと楽しい。
「そういえば、おこた買ったんだよ。小さいから、譲り合って入らなきゃだけど」
「いいねぇ。芹香は俺の膝に座ったらいいよ」
「またそういうこと言う!」
「え? 今のは別にそういう意味じゃ」
「え? ……もうやだー!」
「芹香はスケベだな」
「ちがうもん!」
夜の住宅街を、私たちははしゃぎながら歩く。その様子は子供のときと同じはずなのに、ちょっと変わってしまった。
昔は、お腹空いたねとか夕飯は何かなというような食い気一辺倒な会話だったのに、今では色気と食い気が入り乱れている。
何だかおかしいけれど、これがきっと私たちの形なのだ。
裕樹は私の家族で、大切な人だ。まだ弟として大切という気持ちもあるし、ひとりの男の人として好きだという気持ちもある。
その気持ちは、これからもっともっと育っていくのだろう。
そう思うと、恥ずかしさはあるけれど、やっぱり嬉しい。
その嬉しさを伝えるために、私は裕樹の手を握った。
「寒いから、早く帰ろうか」
「うん」
もしかしたら茶化されたりまたスケベなことを言われるかと思ったけれど、裕樹はただ私の手を握り返してくれただけだった。
温かくて、大きな手。
これから先、私は幾度となくこの手を握るのだろう。この手に頭を撫でられ、抱きしめられるのだろう。
そんなことを考えながら歩いた。