夕暮れどき、あなたと



***


「ただいま……」

スニーカーを脱いで、家に入る。
誰もいないとわかっていても続けている挨拶が、無意識に口からこぼれた。

カバンをリビングのソファに置いて、勢いよく座った。

「……ぁ」

電気も点いていない暗い部屋で、わたしはソファの淵に足をかけ、三角座りで顔を埋めた。

ふと思い出して、薄手のコートのポケットの中からハンカチを取り出した。

有名なタオルブランドと、どこかの紳士ブランドとのコラボ商品のようだった。
色褪せてもおらず、ふわふわの触り心地。ちゃんとこだわって洗濯している証拠だった。

「……こんなのもらっても困るし」

濃紺のそれを、ソファの前のローテーブルに投げた。その拍子に、あの男性の香水の甘い匂いが、部屋に広がっていった。

また顔を埋めて、目を閉じた。

たしか少しでも目を閉じていると、脳が休まって良いと聞いたことがある。


そんなことを考えていると、遠くからバイクのエンジン音が聞こえてきた。


***


いつものカフェに行かないまま、水曜日が三回過ぎていった。

その日は、気分が重たかった。
夏のオープンキャンパスで学科説明のために一曲弾く予定なのだが、その曲が上手くいかないからだった。

先生からは、打鍵が強いとか強弱をハッキリしろとか、自分では上手く弾けているつもりでも、相手からしたらそうではなかったことに、少なからずショックを受けた。

車窓から望む河川敷の斜面の草が、西日をキラキラと反射して、活力に満ちているようだった。
まるでわたしとは正反対だ……とため息をついた。


わたしはいつものように、家の最寄り駅で電車を降りた。


四回目の水曜日も、わたしは家へと帰るために、カフェのある団地へと繋がる方向とは逆の方向に足を向けた。


「……待って!」


その声が誰のものかはわかった。

冷たい風に乗って甘い匂いがやって来る。


「なんで来ないんだ」


革靴の硬い靴底が、コンクリートを叩く。


「……きみは、"いつも"にこだわりすぎなんだよ」


動けなかった。

その言葉が、的確で。

今までのわたしが、否定された気がして。


風が吹く。

周りの木々を巻き込んで、ざわざわと音を立てた。はらりと枯葉も舞い、続く風がわたしの髪や服を乱れさせる。



今度は! ……正義の味方と、付き合ってみない?」


たまらなくなった。

わたしは振り返った。


男性はいた。

風のせいで、せっかく綺麗にセットされていた髪が、乱れていた。
冷たい空気のせいか、鼻の頭が赤くなっていた。


「あの人だって、わたしにとっては正義の味方だった!」


気づいたら、そんなことを口走っていた。


「あの人を否定しないで!」


……あぁ。


まだわたしは、あの人のことを忘れられていなかった。

カフェに行かなくなって、無理矢理忘れようとしていたんだ。


「……ごめん」


甘い香水の匂いがする。

足音がしたと思ったら引き寄せられて、濃紺のスーツが視界に飛び込んでくる。腕が背中に回されて、わたしを気遣うかのような力加減で、抱かれた。

彼の身体が、冷たくなっていた。

どれだけここで待っていたのだろう。


「離してっ……」


「離さない」


わたしの背中を抱き締める力が、強まった。

どうやら本当に離す気がないらしい。


「わたしは……あなたのことを何も知らない。名前だって知らないし、年齢も、どこに住んでるかも、誕生日も」


「そんなものが恋愛には必要?」

「……わたしは、必要っ」


そう答えると、男性はゆっくりとわたしから力を離していった。

コツ……と、革靴の音。

わたしと男性の間に吹く、冷たくて弱い風。


「これから知っていくんじゃあ、ダメ?」


この人は、本当にわたしと付き合いたいのだなと思った。


相手を忘れられていないのに、

まだ未練があるのに、

あなたではない男を想っているのに、


そんなわたしと付き合いたいと、思えるなんて。

どれだけこの人の心は、寛容なのだろう。


でもやっぱり、わたしは。

「ごめんなさい……」

相手を傷つけたことはよくわかっている。

これだけ寛容で、真摯にわたしに向き合おうとしているのに。

わたしは、

「あなたが警察官だから……」

こんな理由で断っている。


「……俺は」

この先、何を言われても、わたしは何も言い返せない。

「別にきみの元カレさんを逮捕しようだなんて考えていない」

「……それでも!」


「そもそも、交通ルールも守って、高速道路の利用料金も払っているんだろ? それなら、逮捕される心配なんかほぼないじゃないか」


……そうだった。


「それにあのときは、警察官としてきみと話していたわけじゃない。……ただひとりの男として、きみに魅力を感じたから、聞いただけだ」


安心して、いい。

この人は、あの人たちのチームを逮捕しようだなんて考えていないのだから。


その事を受け入れるまで、しばらくの時間がかかった。

大丈夫、大丈夫と心の内で唱え続ける。

本当に、この人を信用しても大丈夫? という考えも、頭をよぎる。

早く決断しないと。

なんとなくそう焦った。

今日無理に答えを出さなくても、後で連絡先を訊くなり、あのカフェで待ち合わせなりすればいい。
そうも思った。

でも今日決めなかったら。
今日決めなかったら、もうダメな気がする。


わたしは、肩に掛けていたトートバッグの持ち手を強く握った。


いつの間にかスニーカーのつま先をじっと見つめていた視線を上げ、あの人に向き合う。


「……いきなり、お付き合いは出来ません」

「そっか……」

「でも、お友達、というか……そこから、お願いします」


この人と会っていくなかで、付き合うかそうじゃないか、決めたらいいと思った。

この人とは、"いつも"にこだわらない恋愛がしてみたいと、少しだけ思った自分もいる。


男性は笑った。


「いいよ。……全然、それで」


ふと、なんとなく西の空を見上げた。


今日の夕日は、奇跡のように綺麗だった。

西にある山に向かって、翼のように広がるうろこ雲と、ハケでさっと白い絵の具を引いたような、巻雲《けんうん》。その隙間から夕日の光が漏れて、それはもう美しかった。


びゅっと、一際強い冷たい風が吹く。
針のように、肌に刺さってくる。

髪もスカートも、ぶわっと舞った。


「木枯らし1号かも……」


男性がニコリと笑いながら、そう呟いた。

わたしはトートバッグを背負い直して、頷いた。


初めて、お互いの目と目を合わせた。



もうすぐ、本格的な冬が来る。
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