仔猫 VS 僕
いつもは放課後、特別な用事がない限りエントランスで待ち合わせをしていた。
上級生の教室まで迎えに行くのは気恥ずかしすぎたし、紗綾さんもそこまでしなくていい、と二人の意見が合致したからだ。
だけど、今日は違った。
僕は早々と支度を終えると、三年三組の教室へと向かった。
もちろん、紗綾さんを迎えに行くためだ。
正直なところ初めての試みだったから、内心ドキドキしていた。
三年生は大人びて見えた。
顔馴染みでない僕は、すぐに注目の的となる。
狼狽えることは格好が悪い気がしたから、なるべく平静を装った。
(熱いな……)
自覚しない方がもう無理だった。
早いところ、紗綾さんを見つけなくちゃいけない。
「あの、秋永紗綾さん、いますか?」
三組に入って行く女の先輩に、勇気を出して聞いてみた。
その人は僕の顔を見るなり、目を丸くしまじまじと見つめた。
(なんだ? もしかして、また真っ赤なのかな……)
「あのーー」
続きを口にする前に、教室の中から男の人の声がした。
「あんた。もしかして、紗綾のカレシくんか? あいつなら、担任のところに行ったぜ。もうすぐで、戻ってくるんじゃないかな」
親切心だろうけど、そこには色々と引っ掛かる発言があった。
まず、カノジョを呼び捨てにしていること。
それから“カレシくん”などと僕に見下した言い方をしたこと。
その上、紗綾さんをあいつ呼ばわりした。
だけど、どれも自然なものだから、日常のことなのだと今は目を伏せておいた。
「ありがとうございます」
僕は引きずる笑顔で応じた。
(どこで待つかな)
居心地のあまりよくない上級生の教室を前に、僕は立ち往生していた。
その時、初めに紗綾さんの居場所を尋ねたあの女の人が、まだそこにいた。
その手には、クラスメイト全員分の古典のノートがあった。
余裕がなくて、さっきは気がつかなかった。
「良かったら、手伝います」
教卓までの短い距離だったけれど、小柄な女の先輩だったから、手伝いを僕は申し出た。
「え、いいよいいよ。すぐそこだし。それにこう見えてもあたし、結構力持ちなんだから」
そのことをアピールしようとした瞬間、彼女の手からノートが見事に滑り落ちた。
ドミノ倒しをした後のような姿がそこにはあった。
「あちゃー。またやっちゃった」
ハニカミながらその先輩は、ノートを集めた。僕もそれに倣った。
「ありがとうね。結局手伝ってもらっちゃって。それにしても、キミーーホントかわいいね」
「え?」
「紗綾ちゃんのカレシってのが惜しい! 他の子だったら取っちゃうとこなのに」
「あの……」
「はは。初々しいね。チェリーくん。真っ赤だよ?」
「……」
その後、教室中の見世物になった僕は当然のことながら、なす術がなかった。
「え……柚ちゃん?」
ちょうど絶妙に最悪なタイミングで、紗綾さんが帰ってきた。
教卓前で恥辱に染まる僕を見たカノジョは、すぐに笑顔を取り戻した。
「びっくりしたよ。驚かせようとしたの? それなら成功だね」
目も合わさず、紗綾さんはすぐさま帰り支度を始めた。
「ていうか、紗綾。カレシくん、可愛すぎでしょ。これ犯罪だよ?」
「二つしか年、変わらないもの。全然、許容範囲だい」
「紗綾が年下カレシねえ。チェリーくんも、こりゃ大変だ。年上の殿様方でも、紗綾には手を焼いているくらいなんだから」
「こらこら。変な言い方しないの。柚ちゃん、ほら帰ろう」
パタパタと片付けを終えると紗綾さんは、僕を教室からすっと連れ出した。
「紗綾さん、結局お昼休みは先生のところに行かなかったんだね」
僕の前を忙しく歩くカノジョは素っ気なくうん、とだけ返事をした。
怒っていることは明白だった。
(やばいな。勝手に迎えに行ったのがまずかったか)
お昼休みからずっと悶々としていたものだから、今日は迎えに行かずにはいられなかった。
早く会いたくて、二人になりなくて、僕にしか見せない紗綾さんが見たかった。
「ねえ、紗綾さん」
「なに?」
さっきから一向に振り向きやしない。
痺れを切らせた僕は、少し声をあらげた。
「こっち、向きなよ」
「むり」
「紗綾」
「今は……やだっ」
下駄箱の扉をバタン、ときつく閉めると、カノジョは叫ぶようにして吐き捨てた。
全然、余裕のない声だった。
全身からそれは伝わった。
「今はムリなの。私……きっとひどい顔してるから、柚ちゃんに見てほしくない」
精一杯の拒絶に、僕は従うしかなかった。
「わかった。もう見ないよ」
いつも従順なわけではない。
僕にも譲れないものがある。
年下でも、チェリーと罵られても、紗綾さんにいつも振り回されても、僕は今日このままカノジョを帰すわけにはいかない。
それだけはどうしても譲れなかった。
今は頼りのない、紗綾さんのか細い手を引き、僕は校舎裏へと向かった。
そして口を開くその前に、背後から紗綾さんが僕に抱きついた。
震える手で僕を掴み、震える声を絞り出す。
「柚ちゃん……」
「なに?」
まるですがるような仕草に、僕は可能な限り優しく尋ねた。その手に自分の手を重ねて。
しかし返ってきたのは、それを裏切るものだった。