俺に、青春なんて必要なかった


気が付けば、昼休みで化学の授業はとうに終わっていた。
今日は有機化学の分野だったようで、黒板には無数の骨格異性体がずらりと列記されていた。
それは、数えるのも億劫なほどの炭素数だった。
構造決定の演習だったのか、と俺は胸を撫で下ろした。
俺が苦手とする分野は、何といっても見事に暗記ばかりで塗り固められた、無機化学に他ならないからだ。


そんなことより、と俺は立ち上がった。
目的の人物は、まだ席を立ってはいなかった。
それは既に確認済みだった。
そして、その人物はもう昼休みだというのに未だペンを握り、至近距離でノートとにらめっこをしていた。
それにも関わらず、近付く俺の気配を素早く察知するなり、くるりと振り返った。
そこには険しかったはずの顔はもうなく、いつもの笑顔があるだけだった。


「あ、和久井くん。どうしたの?」


そして、今日も俺は彼女の名前を口にする機会を失ったのだった。
そもそも俺が姫野に話し掛けるなんてことがないし、あったとしてもせいぜい今回みたいなレアなケースだけだ。
それに俺が彼女に声を掛ける前に、こうして先に気付かれてしまう。
ともなれば、もう名前を呼ぶ必要もなくなってしまう訳だ。


「これ」


俺は、手にしていたシャーペンを差し出した。


「私、和久井くんの机に置いたままだったんだ! ごめんね。どうもありがとう」


ただ、置き忘れていたシャーペンを届けただけだというのに、それは親切な行為より寧ろ当然の行為だというのに、姫野はとても嬉しそうな顔を俺に向けた。


「いいえ」


何だか、妙に照れてしまった俺は、もはや模範回答にも採択されないような畏まったクサイ返事をしていた。
姫野は朗らかに破顔した。


「あの」


用はもう済んだので、立ち去ろうと背を向けた俺に、姫野が遠慮がちに声を掛けた。


「えっと、ここの問題がわからなくて……和久井くん、わかる?」


「へ?」


それは、あまりに唐突だった。
だから、思わず俺は素頓狂な返事をしてしまった。


「あ、突然ごめんね。和久井くん、賢いからわかるかなあって思って……」


姫野は申し訳なさそうに視線と、そして肩を落とした。


「見せて」


ほぼ寝ていたくせに俺は姫野が分からないという、見るからに面倒そうな問題を何故か引き受けてしまった。


「あのね、ここなんだけど」


構造決定の問題だからやむを得ないが、姫野が指差した箇所にはやたらと長ったらしい文章が連なっていた。


「……」


正直なところ、面倒だった。
そもそも、活字離れが世間に比べ、俺の場合は遥かに進行していたからだ。
立ったまま、問題文にざっと目を通し終えた時のことだった。
間が悪く、それは聞こえた。


「美羽」


確かにその声は、佐久間のものに違いなかった。
それ以前に姫野のことを下の名前で、しかも呼び捨てにしている野郎はこいつしかいなかった。
そこで、これから働こうとしていた俺の思考回路は完全に停止した。


「あ……お昼ご飯、食べる約束していたんだった」


姫野はそう、小さく溢した。
そして去るべく、俺は無造作に制服のポケットへと手を突っ込んだのだった。


「わ、和久井くん、ごめんね。私から聞いたのに」


「いいよ」


やはり、佐久間はいけ好かない野郎だ。
内心むしゃくしゃしながら席に戻ると、にたついた吉村が俺を迎えた。


「姫野さんと、なに話してたんだよ?」


まったく以て下らない質問だった。
だから、俺はため息を吐き捨てるようにして答えた。


「ペンを返しただけだろ」


「ホントかあ?」


「あんま無意味な詮索するなら、行列のプログラムやらないよ」


面倒になった俺は、姑息な手段で吉村を脅した。
そして、この会話を終わらせたのだった。


「え、マジで? 和久井、アレできたの?」


「明け方に完成した」


「ホント、スゲー!」


「吉村のはまだできていないの? 微積のプログラム」


「実は今、サブルーチンに挑戦してるんだけど、ちょっと行き詰まっててさ」


「あ、でも前より進んでるな。ちょっと見せて――」



こうして吉村と趣味の話をしている時間が、趣味に没頭している時間が、俺にとっては何より楽しかった。
愛だの恋だのカノジョだの、青春時代と呼ばれる時代に、必要不可欠らしいそんなものがなくったって、俺には十分だった。
何故なら、今までがなかったからだ。
元々ないものなんだから、ないことに不自由さや不都合さを感じることも当然ない訳だ。

けれど、敢えてあるものとして挙げれば、劣等感や焦燥感かもしれない。
きっと、そういう負の感情が俺の知らないうちに俺自身を、どんどんと孤独に追いやっていた。
卑屈になって、頑なになって、冷めていく。
今の俺にはもう、それを止めるための術を持ち合わせてはいなかった。




「今週から掃除当番かあ。めんどくせえ」


吉村が不平を吐いていた。
当然の如く、俺も掃除の当番だった。
だけど、いつも以上に俺は嫌な気持ちになっていた。


なんたって、今週は大嫌いなトイレ掃除だからだ!
潔癖症ではないが(恐らく)、トイレ掃除は昔から嫌いだった。
妙に薄暗いし、そのくせ狭いし、常に異臭は漂っているし。


俺は周囲にバレないように気合いを入れ、ブレザーの上着を脱いだのだった。
しかし、俺の意とは大きく反して掃除は長引いていた。
理由は言いたくないから言わないが、俺のトイレ掃除嫌いにますます拍車が掛かった日となった。
そして、悔しいことに教室掃除よりも俺達は遅かった。





「姫野さん、頑張るね」


がらんと寂しくなった教室に、姫野がいた。
普段いる取り巻きがいないのをいいことに、吉村は彼女に話し掛けていた。


「今週、化学の小テストがあるから、残って勉強しようと思って。
家だと、誘惑がたくさんあって集中できないから」


「そうだ、俺もやらないと。今日はバレー部ないの?」


「うん。試合でもない限り、月曜日はだいたいお休みなんだ」


「そっか。俺も姫野さん見習って勉強するとしますか」


「あ、私なんて見習うと、吉村くん欠点取っちゃうよ」


「それは参ったな」


「ふふ」


楽し気に会話する二人の少し離れた傍らで、俺は帰る支度を終えた。
トイレの悪臭の被害を受けないために置いていった上着は、教室掃除による砂ぼこりの被害を受けていた。


「俺、図書室寄ってくけど、和久井はどうする?」


上着の袖口を軽く叩きながら、俺は答えた。


「帰るよ」


第一、今週に化学の小テストがあること自体、俺は知らなかった。
いや、元はといえば、授業中に寝ていた俺が悪いのだが、何故か聞けなかった。
どこが出題されるのか、気になったのにその時の俺には聞けなかった。


「姫野さん、またあした」


去り際に、吉村が言った。
姫野は多分、笑顔で応じていた。
多分、というのは実際に見た訳じゃなかったからだ。
なのに。


「またね。吉村くん、和久井くん」


姫野はそう言った。





こんな俺に、唯一挨拶してくれる人がいた。
その人は、ほとんど欠かさず挨拶をしてくれた。
たった一言だけど、その瞬間だけは、冷めた俺の心は小さな火が灯るように暖かくなった。
何だかよく分からないけれど“また”とどこか期待にも似た淡い気持ちが湧いた。
そして、その自分自身も気付かないほど微かな期待が今、報われようとしていた。

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