俺に、青春なんて必要なかった
「和久井くん!」
廊下に出て数歩というところで、俺は姫野に呼び止められていた。
呼ばれたのは間違いなく俺のはずなのに、少なくとも半径五メートル以内にいた生徒はみな振り返っていた。
それに気が付いた姫野の顔は、俄に紅潮した。
「あ、あの、えっと……」
言おうとしていたことを咄嗟に忘れてしまったのか、姫野は萎縮したように俯き言い淀んでいた。
周囲の視線もあり、何だか居たたまれなくなってきた俺より、先に痺れを切らせた吉村が小突いてきた。
そして、目配せをしたのだった。
先程、入れたばかりのポケットから手を出し、無意味に頬を掻くと俺は教室へと戻った。
吉村もきっと、そういう意味で俺を小突いたに違いなかったからだ。
「あのーー」
姫野が小さく声をあげると、吉村は“またあした”と再び別れの挨拶をしていた。
そして、姫野も教室に入ったのを確認してから、俺はドアをぴしゃりと閉めたのだった。
これで、不愉快な視線はシャットアウト出来たはずだった。
「……」
それなのに、姫野はまだ俯いたままだった。
そして、同時に今がチャンスだと俺は思った。
「姫野?」
そう。
彼女の名前を口にする、絶好のチャンスだと。
「名前……」
「え?」
「はじめて私の名前、呼んでくれた」
まるで、譫言のように姫野は言葉を紡いだ。
そんな彼女を前にして、俺は聞き苦しいほど白々しい返事をしていた。
「そう、だったかな」
「うん、そうだよ! 初めてだよ」
俺は決して背が高い方ではなかったが、それでも小柄な姫野が視線を合わせるには、やはり見上げないといけなくて。
しかも、ただ名前を口にしただけなのに、たったそれだけのことなのに、姫野はまた嬉しそうな笑顔を俺に向けた。
その笑顔は、あまりにも無邪気だった。
不意をつかれた気がした。
だから、俺はつい思ってしまったんだ。
“かわいい”って。
テレビや漫画、ゲームを通じて、それを感じたことは今まであったが、そんなもんじゃない。
比になんてならないし、なんたって格が違っていた。
「和久井くん?」
姫野は更に俺を窺うようにして、覗き込んだ。
「あ、それで、どうしたの? 俺に何か用?」
俺は、すかさず頭を切り換えた。
だけど、さっきのアレを消せたわけではなかった。
寧ろ、俺の目に何かおかしなフィルターがかかってしまったみたいだ。
そのせいで、姫野の顔が上手く見れなかった。
「あのね、私……」
姫野の顔から笑顔が消えた。
何を言おうとしているのか、皆目見当もつかない俺はただ待つしかなかった。
「その、私……和久井くんに謝りたくて」
直後、俺の頭上にクエスチョンマークが浮かんだ。
姫野に謝られる心当たりなんて、まったくないからだ。
「えっと、ほらお昼休みの時の……。
私から和久井くんに質問したのに、ご飯食べに行っちゃったから」
「ああ」
たった今、思い出した。
今の今まで、忘れ去っていた。
俺にとっては、それくらいのことだった。
だから。
「いいよ。気にしないで」
と俺は言った。
そして、姫野の顔に再び笑顔が戻った。
「それでね、もしよかったら、その……お昼の続き教えてもらいたいなって思って……」
“あ、もし忙しかったり面倒だったらいいから!”
と姫野は付け加えた。
「いいよ。俺が答えられる範囲でなら、だけど」
「ホントに? いいの? ありがとう!」
そんなに、感謝するほどのことじゃないのに。
ただ、断る理由がなかっただけなのに。
もっと笑顔が見たい、そんな下らない俺の下心からなのにーー
当然、そんなことを知らない姫野は、屈託のない笑顔を俺にくれた。
その、たった数時間という時間の中で、俺の姫野に対する見方は完全に変わってしまった。
端的に言うとそれは“唯一、挨拶をしてくれる女の子”から“特別な女の子”になった。
今まで、女子とこんなに沢山話したことはなかった。
当然、こんなに楽しいと感じたこともなかった。
姫野の表情、言動のひとつひとつが俺を捉えて離さなかった。
「和久井くんって、やっぱりすごいね! どんな問題もパッと解けちゃうんだもん」
「そんなことないよ。有機化学はまだ、好きな方なんだ」
「でも、数学もできるでしょ?」
「普通だよ」
「え、うそ! 和久井くんが普通なら、私は最低になちゃうよ……」
「それなら、ちょっとできる、にしとく」
「もう……和久井くんはイジワルですね」
そのあと、俺は自分でも驚くくらい穏やかに笑っていた。
それは面白かったからではなくて、姫野のその仕草がとてもかわいく感じたからだった。
俺は夢中だった。
全然、目が離せなかった。
趣味以外のことで、こんな風になるのは姫野が初めてだった。
その日、俺は姫野と一緒に帰っていた。
意外に盛り上がり途切れなかった会話に、俺自身も心底楽しんでいたが、これが最初で最後なんだろうと、どこか冷静な部分でつまらないことを考えていた。
そのせいで、改札での別れ際が随分と惜しまれたのを、今でもよく覚えている。
きっと自分では、見るに堪え兼ねないほどの情けない顔をしていたように思うが、その時の俺には、それを気にしているだけの心の余裕がなかった。
“和久井くん、またあした”
そう、改札を隔てた向こう側で、元気よく手を振る彼女が、ずっと俺の頭から離れなかった。
姫野が言った“またあした”それが来れば、また無条件で会うことが出来る。
だけど、今日のような特別な日はきっと、もう来ないばずだった。
それは、俺自身が一番分かっていたはずだった。
だから、驚いた。
本当に信じられなかったんだ。姫野とまた、二人で勉強できる日が来るなんて――