俺に、青春なんて必要なかった
「和久井くん」
「どうしたの?」
「うん、あのね……ちょっとまた教えてほしいところがあって」
「いいよ。どれ?」
「数学なんだけど……」
そのあと、姫野は更に言いにくそうに口をつぐんでいた。
彼女の言わんとしていることが、今一分からなかった俺は、高鳴る胸を抑えながらも彼女の言葉を待っていた。
それは姫野と一緒に帰ったあの日から、何回目かのとある月曜日のことだった。
「姫野?」
「その……多分、時間がかかると思うから、もし和久井くんが大丈夫なら、放課後にまた教えてもらいたいなって思って……」
下らない吉村の冷やかしなんて、そんなもの今はどうでもよかった。
願ってもいない姫野からの、この上ない誘いを前にして、俺は即答せずにはいられなかった。
「俺なら、大丈夫だよ」
だけど、この嬉しさを露にするにはまだ鉄壁の理性とか、ちっぽけな見栄が残されていたため、俺は多分平静を装えていたはずだった。
「和久井くん、ありがとう!」
姫野が柔らかに破顔したから、どこかたどたどしかった彼女を纏う空気も和らいだ。
“またあとでね”
俺の心を浮わつかせる、期待を含ませた言葉だけを残して、姫野は佐久間の元へと駆けて行った。
そして、つい先程まで俺に向けていたあの笑顔を、姫野は佐久間にも向けていたのだった。
その時、ふと何かが心に引っ掛かった。
確かに何かが胸を掠めた。
だけど、それは微かで、あまりにもぼんやりとしていたから、俺自身もよく分からなかった。
ただ一つ、確実に言えることはその“何か”とは間違いなく“良くないもの”だということだった。
その日の、最後の授業終了を告げるチャイムが、たった今鳴った。
と同時に、クラスは教師への嫌がらせの如く、荒々しい音を立て片付けをし始めたのだった。
教室掃除のこともあるので、俺もとりあえず片付けを始めた。
そして、ちょうどペンを仕舞い終えたところで、姫野がやって来た。
「和久井くん!」
何だか、彼女は慌てた様子だった。
「えっと、今日、放課後大丈夫かな?」
「うん」
「よかった」
つい数時間前の昼休みにその約束をしていたというのに、何故だか姫野は俺のその言葉に安堵した様子を見せた。
「和久井くん、片付けしていたから、てっきりもう帰っちゃうのかなって思って……」
そう言いながら、姫野はきまりが悪そうに視線を落とした。
「俺もそんなに薄情じゃないよ」
「うん。そうだよね。
私、今日掃除当番だから少し待っててもらってもいいかな?」
「わかった。教室にいるよ」
「うん、ありがとう。私も急ぐね!」
どこか必死な姫野がいじらしく思えたから、つい俺の中にイタズラ心が芽生えてしまった。
だから、真剣な表情で急ぐと言う彼女に“かなりね”なんて、低級なイタズラ言葉を投げ掛けてしまったんだ。
それから俺は、暫く廊下で時間を潰していた。
放課後の風景を眺めながら、ふとあるものが目に止まった。
きっと、今までの俺なら気にも止めないようなものだった。
それは、一組のカップルだった。
そして、俺は自分の想像の浅ましさから、すぐに目を反らしたのだった。
窓から教室へと視線を戻し、壁に背を預けた時、少し息を切らせた姫野が俺の視界に飛び込んできた。
「待たせてごめんね!」
申し訳なさそうに眉毛を下げて謝る姫野は、肩で浅い呼吸を繰り返していた。
それを見た、俺の方が申し訳ない気持ちになった。
先程、かなり急げなんて下らない冗談を言ったばかりに、姫野に要らぬ気を遣わせてしまったに違いないからだった。
「いや、俺の方こそ急かしたみたいでごめん」
「ううん! 私も早く終わらせたかったし。
それに……和久井くんに、早く教えてもらいたかったから」
そこで、姫野はやっと笑顔を見せた。
彼女の、はにかんだような表情とその台詞に、俺は何だか擽ったさを覚えた。
だから、すぐに人が疎らな教室に入ってしまった。
前回のような完全に二人だけという空間ではないことに、ほんの少し残念な気持ちになりながらも俺は姫野の質問に応じた。
「なるほど! さすが、和久井くん。寝ていても完璧だね」
「あれ。なんか今、聞き捨てならない一言があったような」
「え……き、気のせいだよ」
「……」
「ごめんなさい」
姫野とこうして、放課後に勉強するのは久々だったが、一緒に帰ったあの日から話す機会は格段と増えていた。
そして、授業中によく寝ている俺を姫野はたまに注意したものだった。
「でも、授業聞かなくてもわかるなんて、ホント羨ましいな。
私なんて、どんなに聞いてもわからないことばかりだから……」
「最後に解ればいいよ。俺は姫野の、その姿勢の方がよっぽど大事だと思うけど」
「そうかな。ありがとう。
私も諦めないで頑張ってみる」
片付けをしながら、俺も頷いて見せた。
「あ、今日ってもしかして、和久井くん予定あったの?」
「いや、そんなことないけど」
「ホントに? まだ少し大丈夫かな……」
「大丈夫だよ。見せて?」
後ろで何かを隠すようにして腕を組む、姫野のその手に化学のプリントが窺えた。
だから、俺は見せて、と手を差し出した。
「あ、うん。今日の状態方程式のところなんだけどね……」
自分自身の理解の範疇で姫野に解説しながら、彼女の話を聞いたり教師の愚痴を溢したり、たまに意地悪を言ったり、他愛もない話をしていた。
気が付けば疎らだった人もいなくなり、それは本当に二人だけの空間で、周りなんてまったく見えくなっていた。
いや、見ている余裕なんてなかった。
ただ、俺の目の前にいる姫野に心を奪われた。
だから、少なくとも驚かずにはいられなかったし、当然落胆せずにもいられなかったんだ。
なんの前触れもなく、良すぎた空間を壊したのは俺の携帯だった。
ポケットから、着信を知らせる鈍いバイブ音が響いた。
無視するには、十分不快すぎたため俺はそいつを取り出した。
そして、ディスプレイに表示されている名前を見るなり、条件反射で再びポケットへと仕舞ったのだった。