俺に、青春なんて必要なかった
「出なくていいの? 私なら気にしないでね」
「うん、いいんだ。大丈夫だから」
俺は少しばかり苛立っていた。
理由は言うまでもなく、先程までのあの良すぎた空間を壊されたからだったが、もう一つあった。
それは、電話を寄越した人物そのものだ。
一旦、気持ちを落ち着けてから、俺は再びプリントに目を向けた。
だけど、着信は鳴り止まなかった。
無論、集中なんてできたものではないし、苛々が募るほどに空気が悪くなっていく気がした。
限界を迎えた俺は立ち上がった。
「ごめん。ちょっと出てくる」
「あ、うん」
廊下に出て、教室のドアをきちんと閉め終えたら、俺は渋々携帯を耳に押し当てた。
「なんだよ、萌恵(もえ)」
こいつから電話を寄越す時は、大概何かを買わすケースだった。
しかも、大体どこにでも売っている下らないものだ。
つまりは、俺はこいつのパシリだった。
情けないが仕方ない。
だって。
「もう、お兄ちゃん! なんで電話でてくれないの!」
その電話を寄越した主は、五つも年下の妹だからだ。
本気でムキになるには、相手は幼すぎた。
だから、俺は妹の下らない要求を呑むしかなかった。
「今、出ただろ。で、用件はなに?」
「アイス食べたい!」
ああ。ほら、やっぱり。
下らなかった。
出るんじゃなかった。
俺は激しく後悔した。
「自分で買えよ。それくらい近くのコンビニで売ってるだろ?」
「もう、もえ家だもん。制服も着替えちゃったもん!」
要するに、買いに行くのがめんどくさいらしい。
幼児のような言い訳をする中学生の妹に、俺は呆れたため息を吐くしかなかった。
「忙しいから切るよ」
「ウソつき! お兄ちゃん、いっつも暇じゃん! 帰り道のついでに買ってきてよ!」
どうしたら、こんな自分勝手な発言ばかりが出てくるのだろうか。
まったく以て理解不能だ。
本心は一刻も早く、この電話を切って姫野の元へと戻りたかったが、今は萌恵に“妹”という立場を分からせる必要があった。
ついでに俺の怒りを鎮めるためにも、だ。
「そんな頼み方するなら、絶対に買って帰らないよ。
欲しいなら、言い方あるだろ?」
「……」
ああ、もう。
めんどくさい。
「萌恵」
「お兄様、買ってきてください!」
「ん、宜しい」
これで気が済んでしまう俺も、結局のところは妹と何ら変わらないのかもしれない。
つまりは、同列ということだ。
言付かったものは、シャリシャリくんのトロピカルミックス味というまったく以て想像できない、いや、したくない味のアイスでこの夏限定らしかった。
そもそも、何をミックスしているのかさえ分からない始末だ。
妹は度々、新商品や限定品を買いたがる傾向にあるが、その都度失敗に終わっていた。
自ら、しかも何度も苦い経験をしているのにも関わらず、それを買い続ける妹の頭の辞書には、きっと“教訓”という言葉はないのだろう、と俺は思い始めていた。
だから今回も失敗を想定して、頼まれたものと定番のソーダ味を買って帰ることにしたのだった。
一気にテンションの下がった俺は、閉ざされたそのドアを開ける手が何だか重く感じた。
だけど、戻らない訳にはいかない。
俺はドアに手を掛けた。
そして、開けた視界に真っ先に飛び込んできた姫野は、窓辺に佇んでいた。
その後ろ姿を見た俺は、途端に申し訳ない思いに駆られた。
だけど、姫野は振り返るなり笑顔で俺を迎えた。
「あ、もう電話終わったの?」
「うん。待たせてごめん」
「ううん。いいよ。
その、用事は大丈夫なの? もし急用なら、今日はもう……」
「全然、そんなんじゃないから」
電話の用件があまりにも野暮用だったため、俺はつい遮るようにして言葉を発してしまった。
「……そっか」
何だろう。
この違和感。
姫野の置いた間が、俺は妙に気になった。
決して長い間ではなかったが、何だか気になった。
とりあえず元いた席に着いたが、姫野が窓際から離れる気配はなかった。
背を預け、俯き加減の彼女はやはり何か様子が違っていた。
そして、ポツリと溢したのだった。
「ひょっとして……さっきの電話って、カノジョさん?」
「え」
頭が一瞬、フリーズした。
まったく予期せぬ言葉を不意に掛けられると、思考が止まるということをその時俺は初めて経験した。
今の問い掛けを噛み砕き、当然たった一つしかないはずの答えを口にしようとしたら、間が悪く携帯が床に落ちた。
そして、直後鈍い振動が響いた。
次は、電話ではなくメールを知らせるバイブのようだった。
「やっぱり……今日はもう帰るね」
言うや否や、姫野は敏捷な動きで席に戻り、手早く片付けをし始めた。
俺は掛ける言葉が見付からなかった。
明らかに態度が変わった彼女の後ろ姿を眺めながら、俺はその場に佇むしかなかった。
そして、無造作にポケットへと突っ込んだ手で携帯の電源を切ったのだった。
「姫野……ごめん」
漸く出た一言は何の味気も、何の気も利かない言葉だった。だけど、姫野は言った。
「ううん。忙しかったのに、教えてくれてありがとう。またね」
足早に去る姫野は、一度たりともこちらを振り返ることはなかった。
それどころか、俺と目すら合わさなかった。
怒らせたのかどうかまでは分からなかったが、気分を害してしまったことはほぼ間違いなかった。
「姫野!」
気が付けば、俺は駆け出していた。
だって、見てしまったから。
ここを立ち去る姫野の頬に、光る一筋の雫を。
それは、ほとんど反射に近かった。
ちょうど、姫野が教室を出る手前で俺は彼女を掴まえた。
初めて触れた、女子の腕は、折れてしまうのではないかと錯覚させるほどにか細くて、不謹慎にも脈は速まった。
姫野は蚊の鳴くような小さな声で悲鳴をあげると、俺の手を振りほどいた。
それは咄嗟のことだったからかして、か弱そうなその腕からは想像も出来ないほどの力だった。
だから、俺もすぐに手を離してしまった。
だけど、間違いなかった。
先程、彼女の頬に見た雫は見間違いなんじゃなかった。
俺が姫野を引き止めたあの一瞬、振り返った彼女の頬にそれは確かにあったのだ。
掴まれた方の腕を抱え込むようにして、小さくなる姫野の肩は細かく震えていた。
「姫野」
それは、本当に無意識に出た。
多分、姫野の今の有り様を見ていると、呼ばずにはいられなかったのだろう。
彼女の名前を呼ぶ声は、混乱する心境とは裏腹に意外にも落ち着いていた。
もしかしたら、姫野を落ち着けようとする思いからかもしれない。
だけど、彼女は謝った。
「ごめん、なさい……」
「なんで姫野が謝るんだ? 悪いのは俺の方だよ」
彼女の後ろから、訴えるようにして出た俺の言葉に、姫野はかぶりを振った。
「もとはと言えば、私が図々しいお願いをしたのが悪かったの」
細い声ではあったが、姫野は語尾まで決して語気を緩めはしなかった。
だけど、その理由が正しいと俺は思えなかった。
「それは違うよ。だって、俺は図々しいなんて少しも思わなかった」
「でも、カノジョさんがいるのに私……」
姫野の大きすぎる誤解を今すぐにでも解きたいのに、今さら否定の言葉を発しにくい空気がそこにはあった。
俺自身を構成する冴えない要素の、いったいどこに姫野は“カノジョ”という単語を連想したのだろうか。
俺は思う。
それは、世の中にごまんと存在する言葉の中で、俺にとってはまったく縁のない言葉ベストファイブに間違いなく入る、と。
だから、今度は強く言えるはずだ。
先程は突然のことで、頭が凍結したが今度こそは。
「姫野、それも違うんだ。
付き合ってる子なんて、俺にはいないから」
「え?」
驚きのあまりか、姫野は漸く振り返った。
その目元はまだ乾いてはいなかったが、涙はもう止まっているようだった。
「うそ……ホントに?」
見開かれた目は半信半疑に揺れていて、涙の跡が残る頬に思わず伸びそうになった手を、俺はポケットへと引っ込めた。
それから、身の程を知らない邪な思いをため息とともに吐き出したのだった。
「なんか、しつこく聞いちゃってごめんね」
俺の、ため息の意味を履き違えた姫野は、華奢な肩を更にすぼめた。
「いや、そういうんじゃなくて……」
「え?」
歯切れの悪い言い方をしてしまったために、言葉の続きを待つ姫野。
その視線に耐えきれなかった俺は、ため息の言い訳を先程浮かんだ疑問にすり替えてしまった。
それは、極めて微妙なものだった。
「なんていうか……俺に付き合ってる子なんていないのは一目瞭然っていうか」
やはり歯切れの悪かった俺の言葉に、姫野はやや怪訝な顔付きを示した。
「どうして、一目瞭然なの?」
「いやだってほら、俺こんなだし」
自ら振りながらも、明らかに話の方向性がおかしくなってきたことに少しげんなりしていた。
だってそれは、今議論することでも、ましてや姫野に言うことでもないからだ。
そして、彼女を取り巻く空気も何だかおかしいようだった。
「……いよ」
「え?」
「そんなの関係ないよ」
「姫野?」
「全然、一目瞭然なんかじゃないよ」
俺は、何も言えなかった。
当然否定すべきことなのに、口が重く閉ざしたようだった。
恐らくそれは、今ここで俺が否定をしたら、姫野は更に上回る否定を重ねてくる気がしたからだ。
彼女の心優しく何気ない否定はきっと、俺の愚かで貧しい妄想を爆発させる火種になり兼ねない。
だから、どうにかして俺は、この空気を変えなければならなかった。
だが、十八年間冴えない人生を送ってきたこの俺に、そんな高度なスキルがあるはずもなかった。
そして結果、姫野が変えることになった。