俺に、青春なんて必要なかった
「でしゃばった言い方してごめんね」
「いや」
どこがでしゃばった言い方なのか、俺にはまったく分からなかった。
受け答えが微妙になったのは、やはり先程の疑問を口にすべきではなかったと後悔していたからだ。
正直、遠退いてしまった本題を今更姫野に問うべきかどうか、俺は迷っていた。
しかし、彼女を引き止めた理由は、まさにそのためと謝罪するためだった。
だから、俺は言葉を続けることに決めた。
「いや、謝るのは俺の方だよ。姫野に嫌な思いをさせた。泣かせてしまうくらい」
否定をしようとしたのか、一瞬開きかけた姫野の唇は俺の最後の一言によって再び閉じられた。
それもきつく、力が込められているようだった。
「だから、ごめん」
俺は、純粋な謝罪の気持ちから頭を下げた。
自ずと低くなった視界に、体の前で組まれた姫野の手が映った。
それは力を込めたために、小刻みに震えているように見えた。
だから、俺は下げた頭をすぐさま上げることになった。
「泣いてしまったのは、和久井くんが悪いんじゃないの」
絞り出すようにして話す姫野の声は、涙声に変わっていた。
自ずと早まり出す鼓動に、胸は圧迫感を覚えた。
「ほんとはね、私ショックだったの」
「ショック?」
「うん。和久井くんにカノジョさんがいるって知ったとき、なんだかショックで……。もう今日みたいに勉強教えてもらったり、そんなお願いもできないなって思って」
姫野はさらに続けた。
「もちろん、嘘ついてるなんて思っていないよ。だけど、和久井くんさっきは否定しなかったから。それに、電話で話していた人とも親しげだったし……」
軋む、音がした。
決して自慢にはならないが、長年培ってきた鉄壁の理性は、それは強固で頑丈でしぶとくて、壊れる日なんてまず来ないだろうと自負していた。
だけど、その壁が確かに軋んでいた。
瞬く間にひびが入り、重なった部分から細かな破片が落ちていく。
とりあえず、俺はすっかりし忘れていた呼吸をした。
それから、ポケットに入っていた手を強く握り締め、何とかして理性を呼び戻そうとした。
その掌は体中のどこよりも汗ばんでいた。
過信していた理性と有るまじき欲望との葛藤の末、熱を帯びたため息とともにそれは出た。
姫野はやや不安げな面持ちで俺を見上げた。
「わからないことがあったら、遠慮しないで聞いてくれていいから。これからも」
「うん、ありがとう。和久井くん」
それは、あまりにも澄み切った笑顔だった。
今まで見てきた、どの笑顔よりも綺麗だった。
だからきっと、どうしようもなかったんだ。
どんっ、と背中を途方もない力で押されるような衝撃を食らうと同時に、俺は姫野のか細い腕を掴んだ。
そして、俺の元へと引き寄せた。
「っーー」
さっきよりも遥かに近付いた距離のため、姫野の髪から漂う甘い香りが俺の鼻孔を刺激した。
彼女が一クラスメイトであることには変わりないが、その香りは“女”を意識せざるを得ないほど官能的に感じた。
事実、俺は一瞬頭がくらっとした。
「和久井、くん……?」
胸元から伝わってきた声に、俺は自分が仕出かしたことの重大さに漸く気が付いた。
「ご、ごめん」
もはや反射を凌ぐ俊敏さで、俺は姫野から離れた。
「びっくりして……涙もすっかりとまっちゃった」
つい先程まで、確かに俺の腕の中にいた彼女は嫌な顔一つせず、寧ろ笑顔でそう言った。
「怒って、いないの?」
相当ばつが悪かったため、俺は視線を外しながら恐る恐る尋ねた。
「え、全然、怒ってなんていないよ?」
「でも……嫌じゃ、なかった?」
姫野は、この質問にすぐには答えず少し間を取ると、先程よりも声量を抑えた声で答えた。
「全然、嫌なんかじゃなかった」と。
更にはこう付け加えた。
「だから、謝らないで」
“うん。ごめん”と出かけた言葉を、辛うじて呑み込んだ。
そして、その代わりに俺は言った。
「ね、姫野」
「なに?」
「一緒に、帰ろうか」
「うん!」
それから、更に姫野のことを意識するようになったことはもう、言うまでもなかった。
気が付けば姫野の笑顔を思い浮かべ、気が付けば姫野のことを目で追う日々だった。
いくら鉄壁の理性とは言えど、一度の崩壊の危機に瀕してしまうとそれは脆弱と化した。
もはや、自制することが難しくなった。
こんなことは初めてだった。
もしかしたら、吉村にも気付かれているかもしれない。
普段通りではない俺に。
いや、吉村だけに限らない。
そういう事情に精通している、慧眼を持つ者や、俺と同じような目で姫野を見ている、野郎共ーー特に、佐久間にも気付かれているかもしれない。
俺の中に芽生えてしまった、小さな下心に。
そして、それ故のほんの些細な気の緩みから、いつもは帰りまでに終えているはずの、日直の業務が丸々残っていた。
忘れ去られていた日誌の存在を横目に、俺は残業を突き付けられたサラリーマンの心境はこんなものなのかと、失礼ながらも想像していた。
尤も、これと現役サラリーマンの残業とでは雲泥の差があることは承知の上だが、面倒屋の俺にとっては日誌さえも面倒この上なかった。
しかも、その担任というのがまた、教科書を絵に描いたような人だけにチェックも甚だ厳しかった。
欠席者、遅刻者から授業内容、掃除当番、更には今日一日の出来事まで。
いったい、誰がそこまで詳細に把握しているというんだ。
俺の記載した内容よりも詳しいことを知っているのなら、あんたが書け。
心中で悶々としながらも口にしないのは、説教から解放されるには、それが一番早いことを俺は知っているからだ。
とは言っても、己の気の緩みが蒔いた種。
自業自得ではあるが、やはり気分は当然よろしくはなかった。
職員室から教室への帰り道。
廊下の窓からふと目に入った空には、まだまだ鬱陶しい梅雨空が蔓延っていた。
気持ちは、更に滅入った。
そして、それに拍車を掛けるようにして完全に飽和した空気が、俺の全身を余すことなく包んだ。
この時、自分の不快指数は百パーセントに達したと確信した。
空の薄暗さからは、正確な時間を推測することは難しかったが、廊下の静けさからは放課後になって、大分経つことは窺えた。
空と同じく気分は憂鬱だったが、せめて早く帰ろうと教室のドアを開けた。
しかし、その決心も次の一秒後には、どこかへと消え去っていた。
「あ、和久井くん。日直のお仕事、お疲れさま」
そして、俺が想像して止まない笑顔で“おかえりなさい”と姫野は言った。
期待していなかった訳じゃなかった。
時期は、もう定期試験間近。
また、一緒に勉強出来やしないかと期待していなかっといえば、真っ赤な嘘になる。
だけど、まさか今日だったとは。
こんなに早く叶ってしまうとは。
早くも、普段の冷静さを保つのが苦しくなった。
「和久井くん、今日ってヒマ?」
姫野は、俺の目の前で窺うように首を傾げた。
そのせいで、目線も自然と上目遣いになる。
それが計算か否かなどはもはやどうでも良かったし、そもそも俺の頭にはそんなことはもう塵程も占めてはいなかった。
それから、俺は何故か妙に落ち着かないまま、ぎこちない返答をした。
その態度を、姫野も感じ取ったようだった。
「あ、無理ならいいよ。突然、お願いしちゃったし……。和久井くんも予定、あるよね」
声は明るかったものの、姫野の視線はもう俺から離れて床に落ちていた。
恐らく、彼女のこういう仕草が俺の中の雄の部分を刺激するのだろう、と思った。
現に、俺は姫野へと伸びそうになる手をぐっと堪えている。
どこか小動物的で、守りたくなるようなそんな感覚だった。
まだまだ落ち着かないまま、俺は答えた。
「本当にないよ。だから、大丈夫」
「ホント? よかった」
この笑顔が見られるのなら、きっとどんな予定だって後回しになるだろう、と思ったことは秘密だ。
つい先程、感じた不快さもその時にはもう忘れ去っていた。
教室には、姫野と俺の二人しかいかなかったし、ましてやその人は俺にとって特別な人なのだから、夢中にならない方が無理な話だった。
だから、仕方がなかった。
これは、不可抗力としか言いようがなかった。
二人で勉強が出来る、と喜んだのも束の間。
俺は早くも、加速する動悸を確かに感じていた。
「和久井くん、どうしたの?」
早速、姫野に気付かれてしまったではないか。
俺は視線を外しながら、何もないよ、と答えることで精一杯だった。
当然、姫野は腑に落ちない表情をしていたが、それ以上何も聞いてはこなかった。
俺は内心、相当焦っていた。
なぜなら、落としたペンを姫野が拾おうと屈んだ時に見えてしまったからだ。
だらんと開かれたブラウスから、彼女の胸元が。
先に襲ってきたのは動揺だったため、目に映ったのはほんの一瞬だったが、脳裏にはしっかりと焼き付いてしまったようだった。
だから、冷静さを取り戻すのに大分時間を要していた。
意識をそこから遠ざけようとすればするほど、逆効果な気さえしてきた。
だって、目の前にはあの姫野がいるのだ。
暑いからなのか、珍しく今日は髪の毛を一つに束ねていて、普段見ることのないうなじがよく見えた。
それがどことなく、色っぽい。
然程、うなじというものに興味はなかったが、よく耳にする理由が今、何となく分かった気がした。
いかんいかん。
俺は遠ざかる意識を問題文へと引き戻した。
だが、その直後、姫野がまたとんでもないことを仕出かした。
なんと、暑いねと言いながら、胸元のブラウスを掴むとぱたぱたと扇ぎだしたのだ。
途端に目のやり場に困ったが、俺が目をやらなければならないのは姫野ではなく、問題文だ。
だから、本来なら困ることなどないはずなのだ。
俺は、こめかみに汗が流れるのを感じた。
「和久井くん」
不意に名前を呼ばれたため、俺は不自然なほどに驚いた反応で、すぐ目の前の彼女を見た。
「もしかして……」
姫野が妙に間なんて取るものだから、俺の中の動揺はより一層の膨らみを見せた。
そのせいで、声が上擦ってしまった。
「なに?」
「その問題、和久井くんでもわからないのかなって……。いつも私、和久井くんに聞いてばかりだから、先生にも質問してみたんだけど、やっぱりイマイチわからなくてね。だから、今回もまたお願いしたんだけど」
姫野の言わんとすることが、今一分からなかったから、俺は何も言わずに視線だけを泳がした。
そして、迫り来る沈黙を破るように姫野は言った。
「だから……私も、一緒に考えてみるね!」
多分何も力になれないけど、と姫野は付け加えた。
そんなの気にすることはないのに。
なかなか解けなかったのは、気を散らしていた俺のせいなのに。
そのことを姫野に伝えようと向けた視線の先には、確実にそして的確に鋼の理性をぶっ飛ばすものがあった。
なんと、問題文を覗き込むようにして、姫野が机に乗り出していたのだ。
机と両腕に圧迫された彼女の豊満な胸が、妖艶と覗いていた。
動揺の頂きに立った俺は、大きな音と共に椅子を引いた。