俺に、青春なんて必要なかった
「和久井くんっ、どうしたの?」
当然の如く、姫野は何事だと驚いた声を上げた。だけど、俺は何も言えなかった。
ごめん、と謝罪の言葉を一つ吐くとそのまま、廊下へと出ていった。
とりあえず、壁に背を預けると俺は深呼吸を繰り返した。
動揺の波が過ぎ去ると、途端に襲ってきたのは情けなさと不甲斐なさだった。
俺はいったい何をしているんだ、と自己嫌悪の念に駆られた。
“くそっ”
声にならないほど、小さく吐き出した。
そして、何となく教室に戻りづらかった俺は、トイレへと向かった。
向かいながら思った。
さっきのはナシだ。あれはダメだ。
なんの前触れもなく、あんなものを見たら、誰でも言葉を失う。
寧ろ、理性を保てていたことが奇跡だ。
あんな、もの……。
教室に戻る前に、何とかして気持ちを立て直さないと。
そう思うのに、教室のドアを前にすると、気持ちはどうしようもなく高ぶった。
ドアを引く、その瞬間が最も緊張した。
俺は恐る恐る、視線を上げた。
「姫野?」
彼女が、机上に俯せになっていた。
呼び掛けても返答がない。
寝ているのもおかしな話だ。
もしかしたら、体調でも悪いのか?
しかし、俺が予測したどれもがハズレだったことに、彼女を前にして分かった。
下敷きになっていたノートが、斑模様に濡れていたのだ。
それは、涙の跡に違いなかった。
姫野の涙に違いなかった。
それは、俺の言葉を詰まらせた。
理由は何であれ、姫野を泣かせてしまったのはこの俺だから。
途方も暮れ、立ち尽くすしか術がなかった。
世間一般の男なら、こんな時どうするんだ?
月並みの常套句など並べ、肩でも抱き寄せるのか?
泣き止むまで傍にいて、あやしたりするのか?
陳腐なドラマの、お決まりの展開ばかりが頭に浮かぶ自分自身に嫌気が差したため、もう考えるのも止めた。
いったい、どうしたら……。
何も出来ない歯痒さから、じりじりと苛立ちを感じ始めた時だった。
不意に、自分の足が椅子の脚にぶつかった。
その音で、姫野の肩がびくついた。
そして、彼女は漸く顔を上げたのだった。
「び、びっくりした!」
「ごめん」
「和久井くん、戻って来てたんだね。
全然、気付かなかったや。ちょっとうとうとしてて……」
立っていた俺の位置からは、姫野の顔はよく窺えなかったが、とても早口で且つ敏捷に彼女はノートを閉じた。
その様子から、本当に寝てしまったのかなとも思ったが、そうするとノートにあった涙の痕跡の説明がつかない。
そして、姫野が顔を上げない理由も。
俯くその姿は、初めて彼女の涙を見た日を、思い起こせた。
だから、俺は尚更口を閉ざせざるを得なかった。
そのことが、姫野を追い詰めているとも知らずに。
震えたため息を吐くと、姫野は口を開いた。
「私、何か悪いこと、したかな」
「え?」
「和久井くんを怒らせるようなこと、したのかな……」
閉じたノートの上に、ぽたぽたと涙が大きな染みを作った。
俺は、慌てて否定した。
「姫野は、何もしていないよ。どうしてそんなこと……」
「だって今日の和久井くん、全然喋ってくれないから……目も合わせないし、私が知らない間に何か怒らせるようなこと、しちゃったのかなって」
姫野は声を震わせながら、頬の涙を拭った。
じわじわと罪悪感が身体を侵食した。
姫野に、非なんてまったくない。
悪いのはすべて、俺なんだ。
そのことを強く伝えたいのに、どうしても理由が言えなかった。
だから、説得力に欠けるその行為に、俺はなかなか踏み込めないでいた。
無意味にも頭を巡らせてみたが、結局のところ妙案なんて、一つも思い浮かばなかった。
心労の末、俺は諦めて話すことにしたのだった。
「実は、さ」
不愉快な思いをさせたらごめん、と前置きをしてから俺は話した。
「その、見るつもりは全然なかったんだ。だけど、見えてしまったんだ」
「見えたって何が?」
「その、さっき姫野がペンを取ろうと屈んだときにーー」
さすがに下着や谷間が見えた、とまでは言えなかった。
また、情けないことに語尾も小さくなっていた。
正直、俺は気が気ではなかった。
下方では忙しなく視線を泳がせ、体の水分が尽きそうなほど、手にはびっしょりと汗をかいていた。
何秒か、何分か、よく分からない時間が経った頃、姫野の声がした。
「や、やだ」
言うなり、姫野は即座に立ち上がった。
その拍子に、椅子が大袈裟な音と共に倒れた。
彼女の顔は、瞬く間に紅潮した。
その速さに匹敵する速度で、俺の血の気も引いた。
そして、軽蔑されたと悟ったのだった。
「ごめんなさい!」
だけど、それは間違っていた。
次に、姫野は謝っていた。
混乱から、俺は顔をしかめた。
「私、全然気付かなくて……ヘンなもの見せちゃってごめんね。それは、気分も悪くなっちゃうよね」
その後も、姫野は頻りに謝っていた。
俺が見たものは、ヘンなものでもなければ気分を害するものでもない。
だけど、それを姫野本人に言うのは、何だか違う気がした。
だって、俺が言うとただのヘンタイになるからだ。
とにかく、大きな誤解は解けたようだった。
「ああ、よかった。てっきりもう、和久井くんに嫌われちゃったのかなって思ったよ」
「ごめん。でも、さすがに嫌うことはないよ」
「そう? わかんないよ、そんなこと。だって、さっきは絶対に嫌われたって思ったもん……。
話しかけても素っ気なかったし、急に教室から出ていっちゃうし」
思い出す仕草をすると、姫野は悲しげに目を伏せた。
不謹慎ながらも、かわいいと感じてしまったことに自己嫌悪した。
「姫野に言われてみれば、確かにそうかも」
「でしょ? 嫌われたって思わない方がヘンだよ」
「でも、やっぱり嫌うことはないな」
「ええ。和久井くん、言ってることが矛盾してますよ」
「だね」
だけど、姫野は特別だから。
恐らく、何があっても俺は嫌いにはならないし、きっと嫌いになんてなれない。
やはり、俺にとって姫野は特別だから。
いつしか、なおざりな高校生活に楽しささえ、感じるようになっていた。
翳っていた気持ちも晴れ、時には浮わついたりもした。
そういう風になれたのはすべて、姫野のお陰だった。
しかし、漸く訪れた俺の青春に、早くも終止符が打たれようとしていた。
その悲劇は、翌日から始まった。
教室へと向かうまでの間に、俺は早速、違和感を覚えていた。
普段なら、俺に目もくれないような人間が、ひそひそ話とともに忌まわしい視線を投げてくるのだ。
不快で、且つ不吉な感覚が俺を包んだ。
お陰で、朝から気分は悪かった。
教室には、普段いるはずの姫野の姿もなく、俺は更に落胆した。
「和久井、どうなってんだよ」
席に着くなり、吉村は慌てた様子で言った。
「なにが?」
「なにが、じゃないだろ。
姫野さんのことだよ。付き合ってるって、本当なのか?」
俺は絶句した。
吉村の言葉を理解するのに、数秒を要した。
「意味がわからん。なんだよ、それ」
「俺が聞きたいよ。朝から、すげー噂になってるぞ」
よく分からないが、その意味不明な噂のせいで、俺は朝から不愉快な思いをした訳だ。
廊下ですれ違い様にひそひそ話をしていたのは、そのせいに違いなかった。
「て言うか、俺の方こそ聞きたいよ。
どうして、そんな根も葉もない噂が流れているのか」
「それがさ、昨日おまえと姫野さんが二人で仲良さげにしてるのを、他のクラスの奴が見たって噂だ」
「ああ。確かに放課後、残ってたけど、勉強してただけだよ」
「そうなのか。でも、火のないところに煙は立たないって、諺もあるくらいだろ?」
意味深な吉村の言い方に、俺は引っ掛かった。
「他にも、何か聞いた口振りだな」
「俺に噛み付いても仕方ないだろ。ただ、俺は噂を聞いただけだ。
それを、鵜呑みにするつもりは毛頭ないよ。だから、現に今、和久井にこうしてーー」
「わかったよ。で、他になにを聞いたんだよ」
焦れったくなった俺は、先を促した。
「他にって……まあ、あれだよ。
なんていうか、おまえがさ、姫野さんを抱き締めてたとか、キスしただとか――」
「もういい。吉村」
「ちょっと待てよ。
でたらめを言ってるわけじゃないぜ。俺はただ、聞いたままを話しただけだからさ」
「わかってる。ありがとう」
俺は力なく、着席した。
そして思った。
寧ろ、でたらめであってほしかったと。
キスの噂はさすがに驚いたが、抱き締めてしまったのは事実で、そのことは記憶にも鮮明に焼き付いていた。
その状況にいっぱいいっぱいで、あの時誰かに見られていたとしても、到底気付けるはずもなかった。
それにしても、どうして今日なんだ?
昨日のことならともかく、もう一ヶ月以上も前の話なのに。
俺は太息をついた。
そして、姫野は始業ベルが鳴ると同時に教室に姿を現した。
どことなく元気がないように思われたが、その勘が正しかったと気付くのに、時間はかからなかった。
いつもは熱心に板書をするか、ノートに向かってしかめっ面をするかのどちらかのはずなのに、今日の姫野はそのどちらでもなく、ほとんどが上の空だった。
たまに、小さなため息を吐いている時すらあった。
体調でも崩したのかと思ったが、その案はすぐに却下された。
理由は簡単だった。
休み時間毎に、姫野は佐久間に会いに行っていたからだ。
しかも小走りで、だ。
少しの時間さえも惜しい、そんな風にさえ感じてしまうほど、姫野は急いていた。
二人の仲がいいことは前々から知っていたが、よく訪れたのは佐久間の方だった。
そういえば、姫野から佐久間に会いに行っているところを、俺は見たことがなかった。
理由は、休み時間になると佐久間が迎えに来るからだ。
そうなると、必然的に一つの疑問が浮かんでくる。
どうして、姫野が走ってまで佐久間に会いに行くのか。
その訳もすぐに分かることになる。