意地悪な彼の溺愛パラドックス
「そんなことないです! 私がっ……」
悪いのは私。
柏木さんは、めっちゃくちゃに、よい上司じゃないか。
また涙腺を込み上げてきた熱いものに、私は「うぅっ!」と顔をゆがめる。
なにからどう謝ればいいのか、なんとかしてこの気持ちを伝えようと握った手に力を込めた。
しかし、うるうると見つめる私に焦った様子を見せた彼は、その手を振り払いヨシヨシと頭をなで出す。
「とりあえず落ち着け。もう泣くなって」
迷子の子供でも相手にするかのような仕草に若干の不満を抱き、私はグスンと鼻をすすって唇を尖らせた。
「泣きませんよ。……迷惑かけてばっかりで、ごめんなさい。いつもありがとうございます」
「なんだよ急に。別にいいし」
ポッと頬を染めて狼狽える彼が、照れ隠しのついでに私の頭を豪快になでると、ふたつに結いでいた髪が乱れてボサボサになってしまった。
「げ、ごめん。髪がスゲーことに」
私は「大丈夫」と、ヘアゴムをはずして何度か指先を髪に通す。
もともとやわらかい髪質で、セットやパーマはかかりづらいが、癖がつきにくいという利点もある。
おとなしくなった髪の毛先をつまんで柏木さんに見せた。
「ほら、すぐに直るので気にしないでください」
「いーなー。もう一回ぐちゃぐちゃにしたら怒る?」
「え? いえ別に……?」
というか、それってどういう意味だろう?
真面目でクールでとっつきにくいはずの柏木さんは、ジッと私に焦点を合わせ、揺らぐことのないキラキラとした眼差しを注いだ。
気のせいか二割増しで目つきが鋭い気がする。
食い入るように迫り来る柏木さんになにが起きたのか。
不思議に思い首を傾げると、彼はパンッと両手のひらを合わせて拝むように叫んだ。
「つーか触らせてくれ! こんなの生殺しだ」
(は?)
「ほら、これもやるから」
ズイと押しつけられたのは、彼が飲む予定だったと思われる黒い缶コーヒー。
私、ブラックは飲めないのに。
なんて文句をつけているどころではない。
彼の焦点は私じゃなかった。
私の髪だ。
あれか。もしかして髪フェチってやつか?
気迫に押されてついうなずいてしまった私の髪を、彼はそっと掬いどこか幸せそうにため息をつく。
こうして、事務所でただの上司がただの店長にセンシャスされるという奇妙な光景が誕生した。
「柏木さん、変態だったんですね」
「うるさい」
私がからかってみると、顔を赤く染めてふてくされる表情はなんだかかわいい。
これが彼の本当かとクスクスと漏らした笑い声に、柏木さんは恥ずかしそうにネクタイを少し緩めてワイシャツを扇ぐ。
不意に見えた喉仏から鎖骨のラインが綺麗で、私は不覚にもゴクリと唾をのんだ。
私までなんだか恥ずかしくなり視線を泳がせると、事務所のドアにかけられた鏡が視界に入り、映る自分の目もとが赤いことに気づく。
これは泣いたせい。
その原因の中からひとつ、どうしようもなくショックを受けた言葉が頭をよぎる。
「私、胡散臭い顔ですか?」
絡みついた彼の手がピクリと止まり離れると、パラパラと髪が流れた。
煮え切らない私に彼はあきれた顔で言う。
「だから気にするなって。バカだなー」
「……はい」
「名前。馬場かよ、だっけ」
「そうですけど?」
彼は唐突に名前を確認し、なにか納得した素振りをしたかと思うと、ビッと私の鼻先を指差して宣言した。
「バカヨ」
「え?」
「ばばかよ。バカだから、バカヨ」
(なんだと)
柏木さんは、むにむにっと私の両頬をつまんで意地悪そうに口角を上げる。
ショックが上書きされそうな勢いの言葉に、私は目を瞬いてムッと眉を寄せた。
ククッと笑いを噛みしめた彼がポンと私の頭に手をのせ、それから聞こえてきたのは低くて穏やかな声。
「安心しろ。お前はバカな顔してる」
「……む」
(ムカツク!! 柏木遼!!)
でも、その優しさに気が紛れたのは事実だ。
初めて好意を抱いたのは、この日。
雨が上がった空に、虹が見えた。

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